川上未映子『黄色い家』
『乳と卵』と『ヘブン』は読んでみたものの、「この小説家とは相性が良くないな」と感じて、それ以降川上氏の作品はずっとスルーしてきたが、世間的には出す作品毎に益々話題となって、しかも最近ではそれが世界的規模になってきたので、「もしかして自分の読みが浅かったのか?」と思い直して、今作を手に取ってみた。
ハードカバーで600ページ超えというボリュームに最初は怯んだが、読者をその世界にあっという間に引き込んでいく導入部は素晴らしく、中盤あたりまでは文句のつけようのない面白さ。なるほど、これは評判になるのは理解できるなと納得させられた。よく指摘される村上春樹的な言い回し(<うまく理解できなかった>のような「うまく」の使い方など)が気になる部分もあるが、アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』やグアダルーペ・ネッテルの「盆栽」(『花びらとその他の不穏な物語』所収)など、村上春樹の影響を感じさせる小説がいまや数多存在するのだから、その点をマイナスに評価するのではなく、それだけ村上春樹が現代文学のスタンダードとなっている証左だとポジティブに受け止めるべきなのだろう。
後半になるとややパターン化された描写が多くなって、物語が停滞しがちになる場面も見受けられはしたが、それでも主人公の花が徐々に「信頼できない語り手」と化してくることで新たな局面を迎えて、最後まで読者の興味を惹き付けて放すことがない。物語を推進するドライブ感と、それを支える大変に読みやすい文体には感心するしかなく、この作家に対する見方が大きく変わった。
金原ひとみ『マザーズ』
<ついこの間まで一緒にローションプレイを楽しんでいた妻が、鬼のような形相でエロ本を投げつけ、セックスを拒むようになるとは、浩太は思いもしなかっただろう。それもこれも、育児に手助けがないせいだ。私が一人で孤独に戦っているからだ。戦士はローションプレイをしない。>(p43)
単行本で450ページを超える上、読む前にパラパラと捲ってみると、ほとんど改行がなく、びっしりと文字が書き込まれた見開き2ページがたくさんあって、「うわ。これは読むのが大変そうだ」と覚悟(?)したが、読んでいる内に気にならなくなり、先を読むのが待ち遠しくなってくる。なかでも、上に掲げた箇所では大笑いしてしまった。
ワンオペ育児の孤独と過酷さ、それを三人の女性の視点から描く本作。登場する男性はいずれもそれほど酷いキャラクターだとは思えないが、しかし育児に関してはまったくの無理解であるという点において、彼女たちをさらに追い詰めてゆくことになる。後半に向かってネジを巻くようにして緊張感が高まり、それぞれのカタストロフィを迎えた後に、そこからの再生を描きながら物語は閉じられる。
近年の金原氏の小説から遡って過去作品を読んでいる者からすると、本作の終盤に起こる悲劇については、物語にエンドマークを打つための小説的意図がそこから透けて見えてくるようで、やや作為的な印象を受けてしまうかもしれない。しかし逆に言えば、『マザーズ』で見られた問題点や課題を作者自身も認識して、それらを克服することで、以降の豊かな作品群が生み出されてきたことが分かるような気もする。その意味でも、金原文学の分水嶺的な作品だと言えるのではないだろうか。
村上龍『ユーチューバー』
その昔は同じ村上であっても、より多く売れているのは春樹だが、評論家や熱心な読者から評価されているのは圧倒的に龍だという時期があった。売れたもん勝ち、勝てば総取り、という時代の趨勢もあろうが、村上春樹の本は今も尚売れ続けているだけでなく、良くも悪くも数多の批評の対象となっている。いや、売れなくなっても、一般的な評価が変わったとしても構わないのだが、前作『MISSING 失われているもの』、そして今作からも、作者の隠し切れない(隠そうともしていない?)疲労感が滲み出てしまっているのが気にかかる。
老境に差しかかった作家の典型と言えるのかもしれないが、そのような<典型>に当て嵌まらないのが村上龍だと思っていたファンは多いのではないだろうか。今作の内容についていえば、YouTubeを通して、自身の女性遍歴を語る矢﨑という作者の分身的キャラクターを中心とした4つの中短編からなる連作集(帯には長編とあるが)で、4篇が時間軸通りに並べられていないところに構成の妙があって、短いアフォリズム風の文章の連なりなどいかにも村上龍という感じなのだが、どうしてだろうか、その言葉には昔ほどの強度が感じられず、ピントの定まらない不思議な手触りの物語に終始してしまっている。ファンとしてはこれからも頑張って欲しいと願ってはいるが・・・
トルーマン・カポーティ『遠い声、遠い部屋』
嘗ては最後まで読み通すことができず、内容云々よりも、とにかく何が書いてあるのかさえ分からなかったという印象だけが残っていたが、今回は村上春樹の訳であるということに加えて、あれから少しは自分の読みも深くなっているだろう、と考えて再度チャレンジしてみたが、やはり甘かったようだ。
第1章はともかくとして、第2章のクライマックスでは、結局のところ誰が、そして何がどうなったのかが判然とせず、続く第3章は、最後の一文を除けば、もはや何が現実で何が幻想なのかさえ全く分からない、ひたすら真偽不明な文字の羅列のようにも思われた。 その最後の一文を読めば、この作品がカポーティにとって失われた少年時代の自画像だということは了解されるのだが、それにしても奇妙に歪んで、随分と抽象的な自画像である。
一方で、技巧の限りを尽くした絢爛たる修辞(文体)によって世間に挑戦状を叩きつけようとする、いかにも血気盛んな若者らしい作品(我が国でいえば、平野啓一郎の『日蝕』みたいな)だと言えるのも確かで、意味不明だとうんざりしつつも、時折ハッとさせられる表現に出くわすがゆえに無下に切り捨ててしまうことも難しいのもまた事実。「訳者あとがき」で村上春樹も記しているように、この後カポーティは方向性を変えて、『冷血』を頂点とする素晴らしい作品群を生み出してゆくのだが(私が惹かれるのもそれらの作品だが)、この一回限りの瑞々しい実験性を愛する人がいてもおかしくはないだろう。