音楽の海岸

『「街と、その不確かな壁」と…。』@あまらぶアートラボ

 川田知志さんにとって、初の個展となった『Open Room』(アートコートギャラリー)では、「壁から剥がした壁画」というコンセプトのもと、見事に脱構築的な作品を披露されていましたが、そこから半年足らず、今回は迎英里子さんとの二人展という形式ですが、新たな展開と進化(=深化)の過程を感じさせます。

 今回は会場のあまらぶアートラボがある尼崎市内の「小学校」「中学校」「結婚式場」「履物屋」の4つの施設(現在、元の用途では使われておらず、解体されるのを待つだけ、という共通項がある)をモチーフして、それぞれに異なる4つのアプローチを用いて作品を制作。

 【room1】の展示では、元中学校の壁を使って「再構成」した作品と、新しい材を使って、元履物屋の壁を「再現」した作品とが並んで設置されています。会場に流れていたビデオの中の川田さん曰く「仕切っていた壁を、仕切っていたこと(用途)ではなく、仕切っていた状況を考えて制作した」とのことで、壁の実存的な不確かさではなく(何と言っても、それは目の前にあるのだから!)、概念的な不確かさを、実在の重みとともに提示した作品だという印象を受けました。その意味では、(展覧会タイトルの由来である)村上春樹というより、安部公房の知的遊戯めいた寓話性に近いものを感じます。

 【room2】の「Open Room # 元結婚式場」では、会場にあったカーテンを用いた作品を制作するにあたって、トルソーをモチーフにすることを思いついたとのことで、素材に(より)立体的なかたちを与えることによって、不確かな確かさとでも言うべき、実存の重みを獲得することに(ここでもまた)成功しているように思えました。

f0190773_12074307.jpg
f0190773_12081252.jpg
f0190773_12090243.jpg
f0190773_12090358.jpg
f0190773_12090198.jpg
f0190773_12102884.jpg
f0190773_12102636.jpg
f0190773_12103038.jpg
f0190773_12102837.jpg
f0190773_12103062.jpg
f0190773_12102703.jpg
f0190773_12102721.jpg

# by ok-computer | 2019-03-03 12:12 | アート | Trackback | Comments(0)

「2019・ZERO展」@大阪市立美術館

 「2019・ZERO展 」より、河原和彦さんの『spectrum_color』(1〜7枚目)と東陰地正喜さんの『三連窓』(8〜10枚目)。

 『spectrum_color』は、元々Ture Dure (つれ・づれ)のPVとして制作されたもので、素材となったビデオ映像の真ん中の一部分を、スマホ画面をピンチアウトするみたいに引き延ばすことで生成されるそのイメージは単純化されたもののようでいて、複雑な様相も同時に垣間見せる。河原さん曰く「ゲルハルト・リヒターの(「アブストラクト・ペインティング」シリーズのことか?)影響を受けた」とのことで、なるほど様々な色の織り成すラインが移ろいゆく佇まいには共通するものを感じるが、河原さんの作品はより直感的で、偶発的な現象を捉える即興性に重きを置かれているために、それが音楽との絶妙な親和性を生み出している。

 東陰地さんの『三連窓』は、ぼくも拝見したことがある旧作のイメージを活用しながらも、二つの映像の配置の妙と、そこに万華鏡的な仕掛けを投入することによって、リ・メイクではなく、リ・モデルすることに成功しているように思えた。

f0190773_23113933.jpg
f0190773_23120994.jpg
f0190773_23123557.jpg
f0190773_23132225.jpg
f0190773_23160489.jpg
f0190773_23164661.jpg
f0190773_23171049.jpg
f0190773_23180051.jpg
f0190773_23182351.jpg
f0190773_23173854.jpg


# by ok-computer | 2019-02-28 23:19 | アート | Trackback | Comments(0)

大阪芸術大学卒業制作展2019(大阪芸術大学50)

 昨年から卒展とオープンキャンパスの同時開催形式になっていますが、今年はオーキャン部分はやや縮小されて、卒展作品をじっくりと見れるようになったのは良かったと思います。

 透明回線や小松原智史さんの作品を初めて見たのも大芸大の卒展でしたし、本当に様々な作品が並んでいる中から、「これだ!」と思わせてくれるような才能に出会える期待を胸に、ここ10年ほど毎年楽しみに拝見させていただいています。

 あくまでも個人的には、ですが、今年の卒展で印象的だった作品を以下に紹介していきます。

f0190773_20003404.jpg
f0190773_20010501.jpg
f0190773_20013176.jpg
 川上大志さんの『22歳児』(1・2・3枚目)。少年ヒーローをモチーフに、また、卒展ということで「旅立ち」をテーマにしたという油画。面で描いた立体的な趣に加え、下塗りが見える部分では切り絵的なテイストも感じられます。ヒーローたちが、街(社会)に心ならずも吸い込まれていくように見えるのは、卒業にあたっての作者のアンビバレンツな思いが伝わってくるよう。卒業後は何と警察官になるそうですが、ぜひ絵も続けてほしいです。

f0190773_20020203.jpg
f0190773_20022436.jpg
f0190773_20281635.jpg
 笹尾彰樹さんの『Crafts man』(4・5・6枚目)。ホットワーク技法による、ガラスの上部に顔が接着された作品。デスマスクをガラス工芸的に解釈したように思えなくもないような。重たそうな、土台のセメント部分も含めて、およそ実用性の感じられない唯美主義的な潔さも好ましい。

f0190773_20030227.jpg
f0190773_20032298.jpg
 瀨﨑彩乃さんの『それでも私は』(7・8枚目)。美術学科学長賞受賞。社会の荒波にのまれて絵を描いてきた自分が埋没するのではないかという危機感と、それでも絵を描きたいという抗いの気持ちが込められています。満員電車から着想を得たそうですが、クローゼットを描くことを通して、それを間接的に表現しながらも、その不安感みたいなものを顕在化させることに成功しているのが素晴らしいと思います。クローゼットにある服はほとんどがご自身のものですが、友人の服もいくつか混じっているそうです。服の袖から絵具が滴っているのにはどんな意味性があるのですか?と聞いたところ、このドリッピングには賛否両論あるが、見る人に絵画であることを意識してもらいたかったのと、色んな風に解釈してもらいたくて敢えてそうしたとのことでした。傍にいらっしゃったので、お話しすることができたのですが、ご本人もとても感じの良い方でした。

f0190773_20042723.jpg
 南美咲さん『ルージュの伝言』。タイトルが古い!と思ってしまうのはオヤジだからでしょうか?(笑)右目はすべて隠れていますね。「キッスは目にして」を思い出しました(さらに古い!)

f0190773_20045395.jpg
 上田理世さん『suzuro』。デザイン学科イラストレーションコースの方。カメをモチーフにした連作の一部。共通するカメ愛を確認できたような気がしました(笑)




 塚田隼人さん『映像に身体を包み込まれるインタラクティブな胎児体験』。デザイン学科デジタルメディアコースの方。今ならきっとアートサイエンスに入学していたのでしょうねー。指に当てたセンサーで体験者の心拍を捉え、その拍動を使って映像を変化させる作品です。作品とのエージェンシー(=体験者の心拍)と、それに反応する、ややノイジーなラインで構成された幾何学的な映像、そしてアンビエントなBGMとが、ピタっとリンクするのではなく、良い意味で齟齬をきたすことによって、知覚のズレみたいなものを感じさせてくれます。子どもにも人気の作品でした。

 また、写真が撮れなかった作品の中では、一人暮らしの女性をテーマにした、写真学科の濱緋里さんの「Please Love Only half」が、写真集のページに丸い穴を開けた仕掛けが面白い、その装幀も含めて良かったと思います。

# by ok-computer | 2019-02-11 20:26 | アート | Trackback | Comments(0)

柳美里『家族シネマ』

 柳美里『家族シネマ』を読了。

 もっと陰々滅々なものを想像していたが、主人公と彫刻家とのやり取りなど、結構笑える(笑うしかない)ような場面が多くて、ジョン・アーヴィング的な味わいも感じられた。小説内映画という、虚構の入れ子構造を採っているのも、距離を置いて、フィルターを通しつつテーマを扱いたいという作者の意図の表れではないだろうか。

 銭湯の合わせ鏡の中で主人公と少女がお互いを眺めまわすくだりが印象的で、相手の無防備な姿と、普段は見ることのない自分の後ろ姿とが鏡の中で交錯する。それはまた、別の場面で、お互いに母親に似ている点をあげつらっては非難し合う姉妹の姿とも重なり、崩壊してもなお、その呪縛から抜け出すこと叶わぬ「家族」を描くこの作品を優れて象徴している。

 柳さんの別の作品も読んでみたくなった(次は『ゴールドラッシュ』かな)。

f0190773_16534165.jpg

# by ok-computer | 2019-02-01 16:54 | | Trackback | Comments(0)

朝井リョウ『何者』

 元旦にNHKラジオ第1で放送された『高橋源一郎の「平成文学論」』のなかで、高橋さんが平成を代表する三冊のうちの一つに挙げていたこと、また先日読んだ『桐島、部活やめるってよ』が存外面白かったこともあって、手に取ってみたのですが、これがまた滅法面白い小説でした。

 これだけ面白いのだから、また直木賞受賞作なのだから、きっとこの本は純文学ではないのでしょう。では、一体「純文学」とは何なのでしょう?ウィキペディアによると、<大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語>であり、<北村透谷の評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』において、「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」として定義された>とあります。ふむ、分かったような分からんような。。。

 もしかしたら、映画に置き換えてみると分かりすいのかもしれません。ハリウッド映画と、ヨーロッパやインディーズ系の映画との違い。ハリウッド映画は豪華で華やか、特撮も見事で、観ている間はその世界に浸って楽しむことができますが、映画館を出てしまえば、すぐにその内容など忘れてしまって、「晩ご飯に何食べようか?」などと、普段の生活へとスムーズに戻ることができる。一方で後者は、テーマは抽象的、ストーリーラインは不明瞭、アンチ・ハッピーエンディングということで、観賞後すっきりしないことも多いですが、上手くいけば、強烈な映画体験として、いつまでも観る者の心に残ることとなる・・・というのは、あまりに紋切り型で単純化し過ぎだとは思いますが、ごく大まかに捉えれば、そのようなものではないでしょうか。

 その一方で、例えばマーティン・スコセッシやクリストファー・ノーランの映画は、実質的にはハリウッド映画であるにも関わらず、その偉大性がゆえに誰も彼らの作品(『バットマン』を除く)を「ハリウッド映画」であるとは言いません。

 つまり、いまだに大衆小説(ハリウッド映画)が純文学(ヨーロッパ映画)よりも芸術的に低いもの(!)だと看做されているのであれば、ぼくは『何者』をエンタメ小説だと言い切りたくはない、ということです。たしかに『何者』の文体は軽いです、というか、チャラい、と太文字で形容したくなるくらいです。しかしながら、平成という時代を舞台に、活き活きとした若者(大学生)の生態を、そして「就活」という人生の局面を、文化人類学的に、かつ、台詞と地の文とのギャップを感じさせずにリアリティを持って描くのであれば、この文体は必然だと言えるのではないでしょうか。それに較べれば、村上春樹の『海辺のカフカ』の主人公、15歳の少年「僕」の内的独白はずっと大人びてはいますが、まるでリアリティが無いとも言えるでしょう(そういう意味で村上春樹は『海辺のカフカ』で、15歳のリアルではなく、神話的世界を描きたかったのだと言えます)。

 それはともかくとして、『何者』においては、その軽やかな文体にも関わらず、それらを駆使して表現された内省は深く、登場人物の(おそらくは)無意識的なままの行動や、意識の表面にまではなかなか浮上してこないような心理を描き、そして、それらを丁寧に掬い上げるために、作品はエピソードの積み重ねを中心に構成されており、明確なストーリーラインは存在せず、中心となる6人(そのうちの一人は、桐島くんと同じく、作品に直接登場することはない)がそれぞれに抱える問題は最後のページに辿り着いても何一つ解決されることはありません。まるでヨーロッパ映画みたいです。あるいは、純文学か?大衆小説か?と論じてみること自体、あまり意味のないことなのかもしれませんが、読み終わったらすぐに忘れてしまうような小説とは異なり、その手法とその「ひっかかり」具合において『何者』には、やはり純文学的なものを強く感じます(逆に、ドラマティックなストーリーテリングを期待すると肩透かしを食らうのかも)。

 自分がまだ何者なのか分からないのに、何者かであるフリをして、トランプのブラフみたいに、裏向きでカードを差し出す。友人との自分、先輩との自分、バイト先での自分、就活や面接での社会的な自分、twitterやfacebookのアカウント毎の自分・・・・この作品は「就活」という特殊な状況から帰納して、ネット時代におけるアイデンティティの問題を鋭く描き出すことに成功していると言えます。そして、それはまた、暗い真実であるのかもしれません。

 だからこそと言うべきか、安全な場所から眺めている(読んでいる)と思ったら、いきなり刀の切っ先がこちらに向けられたかのような、後半の展開には相当なインパクトがありました。読者は語り手に共感する(しやすい)という習性を逆手に取った、その絶妙なトリックは、それゆえに、その場面における、理香が拓人に放つ言葉のいちいちが、それを読む我々にズブズブと突き刺さってくるのです。それは安易な共感や、おざなりで無責任な批評を糾弾する一方で、何者かになりたいともがく者へのシンパシーであり、何者にもなれなかった者へのレクイエムであるようにも響きます。

 就活を扱った作品ながら、面接の場面が出てくるのは、最後の最後、たったの1回だけです。その慎ましやかなエピソードは、しかし、暗闇のトンネルの中で、もしかしたらそこから抜け出すことができるのではないかと期待させるもので、最初のページからひたすらに積み上げてきた何モノかによって、それはたしかに光明であるに違いないと、物語の主人公と読者の両方に信じさせるのです。見事だと言うしかありません。

f0190773_11554403.jpg

# by ok-computer | 2019-01-28 11:56 | | Trackback | Comments(0)