音楽の海岸

『The ACG Collection ー 大西康明、新平誠洙、水野勝規』@アートコートギャラリー

 今年のぼくの展覧会初めは、アートコートギャラリー(大阪市北区)の「The ACG Collection」でした。

 展示作品は、大西康明さんの『circulation of water』、新平誠洙さんの『Hell Screen』、水野勝規さんの『monotone』と『sky record』の、全部で4点だけでしたが、どれも非常に見応えのある作品で、3人ともコレクション展では勿体無いなぁ!と感じました(次回は個展をお願いしたい)。

 以下、個々の作品の感想を記してゆきます。

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 新平誠洙さんの『Hell Screen(地獄変屏風)』。6コマのモーフィングのような連作絵画。元々は京都市立芸術大学内のギャラリー@KCUAで開催された、田村友一郎さんの個展『叫び声/Hell Scream』のための作品で、京都市立芸術大学とは所縁の深い、田能村直入と富岡鉄斎という二人の文人画家をモチーフにしたもの。時間と空間、さらにそれらに潜む軋み(ノイズ)を、多様式主義的に様々なアプローチで探求する新平さんのベクトルと見事に合致して、これはなかなか素晴らしいのではないでしょうか。

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 新平さんも、後述の水野さんと同じく、時間経過を作品の主題の一つにしています。原理的に時間経過を内包する映像作品とは異なり、絵画に時間軸をいかに取り込むかは、そのまま、現代において必要とされる絵画とは?という命題へと繋がるような気がします。

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 水野勝規さんの『sky record』。作家の自宅より見上げた空を、4K機材で定点撮影した映像作品。青空に飛行機雲が伸びてゆく様を通して時間の経過を観る者に意識させます。途中何度か映像が静止する瞬間があって、じっと見つめていると、その度に息が止まりそうになってしまったのですが、ギャラリースタッフに聞いたところ、意識的に静止させているのではなく、機材の問題じゃないんですかねー、とのこと。本当のところはどうなんでしょう?

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 大西康明さんの『circulation of water』。宙空に吊るされたポリエチレンシートが、展示空間内の空調や人の動きを察知して、目に見えない空気の流れを可視化する。大きな装置によって微細な動きを感知しようとするコンセプトが秀逸。響き合うマクロとミクロとでも言うべきか。大西さんは同時期に開催している『5RoomsⅡ—けはいの純度』(神奈川県民ホール)では、カラフルな紙テープを使った、新境地とも言える作品を発表しており、今後も目が離せません。

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 大西さんの『circulation of water』は、作品の中に入ってもいいそうで、その様子を撮影してみました。子どもを連れてきたら、喜んで遊びそうですね。まあ、黒装束の物静かな女性スタッフが鎮座するアートコートのあの雰囲気でそれが出来れば、の話ですが(笑)



# by ok-computer | 2019-01-15 21:15 | アート | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『考える葦』

 現代思想的、あるいは哲学的な知識と語彙がぼくの中に決定的に不足しているために、読みこなすのにとても時間がかかった。しかしそれは同時に、刺激的かつ幸せな時間だった。現代日本文学最大の知性が何に対して興味を持ち、どう考察しているのか。知らなかったことを知り得る上に、曖昧にただ感じていたに過ぎないことを言語化してもらうことによって、ある意味インスタントに自己更新できることは読書する喜びのひとつであるに違いない。

 一頃の平野作品に対する一般的なイメージは「難しい」「分からない」というものだったと思うし、それはストレートな感想だとも感じるが、その後に続く言葉は「つまらない」ではなく、「難しい」から、「分からない」からこそ「面白い」のだし、もっと平野作品を読みたく(理解したく)なり得るのだと個人的には考えている。これは現代アート全般を鑑賞する際にも言えることで、分からないことを分からないままにまずは楽しんで、そこから系統立てて調べたりして掘り下げてみればいいだろう。分からない(と思う)ことを楽しむのは、多様性を尊重するということに繋がるのだし、畢竟、世の中をより楽しむ結果にもなり得るだろう。反対に、「分かる」ことだけを恣意的に受け入れるような態度というのは、みすみす自身をガラパゴス化して、やがては自家薬籠的にやせ細っていくしかなくなるだろう。いや、それだけならまだしも、内向きに先鋭化してしまっているのが昨今の日本の状況だとも言える。

 67篇に渡るこの論考集において取り上げられるのは、三島由紀夫から始まり、大江健三郎、谷崎潤一郎、森鴎外、そしてフランス文学へと遡る文学論、ドラクロワやシャセリオーのような、19世紀ロマン主義の画家から、横尾忠則、トーマス・デマンド、広川泰士までの広範に及ぶ美術批評、ドイツ哲学からポストモダンを経て、現代に至る思想史、さらにはマイルス・デイヴィス、マルタ・アルゲリッチ、クリストファー・ノーラン・・・などなどで、その多岐に渡る博識とペダンチスムには付いていけない(プロレスを文化人類学的に分析する人は平野啓一郎くらいだろう!)こともしばしばだが、それはまた、沸々と知的好奇心を刺激して、もっと本を読まなくては!もっと美術館やギャラリーに行かなくては!と思わせられる。三島由紀夫について<古今東西のあらゆる文学作品に言及しては、読者にそれを「読みたい」気にさせる名人>だと評するが、これはそのまま、この本と平野氏自身にも当て嵌まる。

 この数ヶ月で実感したのは、「作家」というだけで有り難がられる時代はとうに終わったということだ。それは、芥川賞を当時史上最年少で穫った人であっても、映画化が決定する前に『マチネの終わりに』が20万部以上のヒットとなった当代随一の作家でも変わらない。さらに、知性的・理性的であろうとすればするだけ(何故か)世の反感を買ってしまうというこの時代において(知性的・理性的な)作家であることの困難を思う。しかしながら、この反知性の時代に対抗するのは、やはり知性を持ってしかないのだと考えざるを得ない(そうでないとするなら「理性」を捨てなくてはならない)。少なくとも、『決壊』で絶望を描いたこの作家はいまだに希望を捨ててはいないのだ。それが伺える「後書き」のパラグラフを紹介してこの感想文の終わりとしたい。

 <私たちは、今日、巨大な世界との対峙を余儀なくされている。なるほど、個々には葦の一本に過ぎまいが、しかし、決して孤立した葦ではない。古今東西に亘って、たくましく繁茂し続けている一群の葦であり、宇宙を包み込むのは、その有機的に結び合った思考である。>

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# by ok-computer | 2019-01-13 17:47 | | Trackback | Comments(0)

2018年のベスト・アルバム

10. Brad Mehldau Trio / Seymour Reads The Constitution!

ジャズ・ファンの人からは「今さら?」と笑われるでしょうが、ブラッド・メルドーの魅力に(ようやく)開眼したことは今年の収穫でした。来年も聴き進めていきます。



9. Gorillaz / THE NOW NOW

才気煥発のあまり、最近はアルバムを出し過ぎの感もあるデーモン・アルバーンですが、ジョージ・ベンソンを引っ張り出してくるようなセンスはさすが(PVでは何故かジャック・ブラックですが)。




8. Mac Miller / Swimming

アリアナ・グランデとの関係で、その死さえも芸能ゴシップ的に扱われているが、長期的には、この素晴らしいアルバムの作者として記憶されるべき。



7. Sunflower Bean / Twentytwo In Blue

1stに続き、2ndアルバムも傑作。NYブルックリン出身の3ピース・ロックバンド、サンフラワー・ビーンはハイプではないことを証明してみせた。



6. Soccer Mommy / Clean

女性ミュージシャンの活躍が目立った2018年の中でも、スネイル・メイルと並んで、際立っていたのはこの人でしょう。I don't wanna be your fucking dog!



5. Let's Eat Grandma / I’m All Ears

イギリスの「恐るべき子供たち」Let's Eat Grandmaの2ndアルバム。才気はそのままに少しだけアップ・トゥ・デイトなテイストに。



4. Tom Misch/ Geography

ジャズ・ギターからR&B、ヒップホップまでを卒なく纏め上げた手腕に脱帽。お洒落だが、ただ単に聴き流して消費されるだけには終わらないという、強い意志と才能を感じる。




3. Jon Hopkins/ Singularity

タイトル曲冒頭の不穏な音像からビートが立ち現れてくる瞬間にゾクゾクする。きちんとした再生装置で聴くと本当にキモチイイです。




2. Mitski / Be The Cowboy

1曲1曲が短く、かつコンパクトな中にも色んな展開があったりするので、最初は曲の構造を捉えるのに苦労するが、聴き返すごとに良くなってくる。見事な小曲集。




1. The 1975 / A Brief Inquiry into Online Relationships

このバンドがこれほど大化けするとは!2018年のみならず、2010年代を代表すると言っても過言ではない傑作。「Sincerity Is Scary」の、緩いダンスとファンタジーが入ったワンカット仕立てのPVもナイス。



# by ok-computer | 2018-12-30 13:42 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

21世紀のベスト・アルバム(これまでのところ)<23>

Kanye West / 808s & Heartbreak

カニエ・ウェストの作品の中でも、このアルバムは過小評価されていると思う。内省的な歌モノHIPHOPという趣で、カニエがビート・メイキングやサウンド・クリエイトだけでなく、メロディ・メイカーとしても秀でていることがよく分かる。彼の言動は感心しないことが多いけれど、それも含めて天才の所業だと言えるのかも。



# by ok-computer | 2018-12-27 23:00 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 この本のデザインは、単行本・文庫ともに、(裏ではなく)表紙にあらすじが明記されているという珍しい仕様になっている。しかも上巻に書かれているそれには、小説を300ページくらい読み進めて初めて出てくる、ある重要な事件について触れてしまっているのだ!

 平野氏は様々なメディアで、『ある男』や『マチネの終わりに』で序文を付けた理由として、自身は静かに小説を始めたいが、冒頭から盛り上がりを期待する現代の読者を納得させるために、19世紀のフランスの小説などで使われていた序文という手法を用いた、という趣旨のことを述べているが、『決壊』の表紙に記されたあらすじについても同じようなことが言えるのかもしれない。他方、これがある為に、最初のページに出てくる人物がその後どんな運命を辿ることになるのかが読者には予め分かってしまうことになるのだが、「何が」起こるのかではなく、「なぜ」起こってしまったのか?という点にこそフォーカスしてもらいたいという考えがあるのかもしれない。

 そう、この小説の最初の一文であり、第七章のタイトルでもある「なぜだろう?」(←実際には傍点有り)というフレーズは、最後まで読み終わった時、真っ先に僕の頭によぎった言葉であり、その疑問の多くがこの小説のメイン・キャラクターである、沢野崇という特異な人物像を通してもたらされたものであるのは間違いのないところであろう。この複雑怪奇な人物を創造したことが、作者がこの作品で成し得たひとつの到達点であることには異論はないものの、彼という存在は一体何だったのか?ということに関しては全く心許ない限りで、沢野崇が現代思想や人文科学などについて饒舌に語る内容に(恥ずかしながら)ついていけない部分があることも確かなのだが、それと平行して、彼の博識と饒舌は煙幕であって、タマネギを剝いていったら最後に何も残らないのと同じように、結局のところ(協調性には異常に富んではいるものの)虚無的な人物に過ぎないのでは?という想いを最後まで払拭することができなかった。

 作中、犯罪加害者の家族に対して、無関係の第三者が粘着質的な嫌がらせをする場面が具体的に描かれる一方で、(被害者家族である)沢野崇は<共感の暴力性>について以下のように語る。

「世間で言うところの被害者への共感っていうのは ― いいかい? ― それは少なくとも、この俺が感じていることとは何の関係もないんだよ!だけど、今の社会は、そうした共感による共同体という夢を、決して断念出来ないね。(中略)そういう社会はね、赦しの契機をどこまでも先延ばしにするだろうね。だって、赦さないことで、人間は同じ一つの感情を共有して、互いに結び合うことが出来るんだから!」

 また、須田という刑事の心の声として「沢野崇という人間は、なにか彼が、自分でも説明のしようもなく無性にムカムカする存在であり、この世界から完全に消えてなくなってしまえばいいと心の底から願っている、まさにそのもので、見ているだけでも腹が立ち、言葉を交わすだけでも虫酸が走るのだった」とまで書いている。

 本来、同情を寄せられ、共感を呼ぶはずの立場の人間である沢野崇をこれほどまでに徹底してそれらの感情を呼び覚まさない人物として造形しているのは、犯罪被害者と加害者両方の家族の厳しい現実を仮借なく描いているこの作品そのものに対して、読者が安易で短絡な共感や同情を寄せてはもらいたくないという、作者の鋼のような強い意志のようなものを感じてしまうのだ。

 もう一点、言及しておきたいのが、ドストエフスキーについて。『決壊』を書くにあたって、かのロシアの文豪を意識したことは平野氏も認めているところだが、なかでも『悪霊』との類似性は見逃せないだろう。19世紀ロシアの革命組織の内ゲバを題材として、<悪霊(のようなもの)>に取り憑かれた人々を描く『悪霊』と、2002年の日本を舞台に、<悪魔>と名乗る連続殺人犯と、その行動や声明文に触発された人々による同時多発テロとが描かれる『決壊』とは、その物語構造のみならず、スタヴローギンと沢野崇というそれぞれの主人公の、優秀なエリートであり、モテモテのイケメンであり、ニヒリスト(スタヴローギンは「彼は自分が何も信じていないということさえ信じていない」と評される)でもあるという人物設定についても(更に言えば、ふたりが最後に辿る運命も)共通している。平野啓一郎がドストエフスキー的な総合小説を目指したのはおそらく間違いないだろう。そしてまた、それにほとんど成功していると言っても差し支えないと思う。ただ、高度に情報化された現代の複雑な社会をそのまま反映した、とてつもない情報量と複雑さを兼ね備えた『決壊』(『悪霊』より複雑怪奇なのだ!)を、現代の読者である我々が(少なくとも僕自身は)簡単には読みこなすことができないこともまた、『決壊』をめぐる構造的な問題点であるとも言える。

 さらに、やや余談になるが記しておきたいことが一つ。『決壊』の中に出てくる、大きな鏡に映し出された自分の姿に間違って恋をして、以後、そこに熱心に通いつめ、求愛行動をし、巣作りまで始めてしまったというペリカン「カッタくん」のエピソードは本当にあった話。

 『決壊』では、これに関してそれ以上は追及されてはいないが、注目すべきは、近作『ある男』において、ナルキッソスの水仙の花への<変身>から、弁護士の城戸が“ある男”Xの自己愛の欲求へと思い至ることになるくだりへと見事に繋がっている点。平野啓一郎という人が、その作品を個々にはもちろん、全的に捉えられることも意識し、またそれを可能にしている作家であることを示す証左ではないかと思う。

 さて、そろそろこの駄(感想)文の結びを探らなければならない。僕は『決壊』のラストシーンに呆然としてしまったクチである。そして、先述のように、「なぜだろう?」と問い直さずにはいられなかった。『決壊』は作家のテクニックによって屁理屈を美文で綴ったような作品では決して無い。『決壊』は体感する(できる)小説である。<決して赦されない罪>を、読み進めるのが苦しくなるほどに、スーパーリアリズム的に描いた作品である。矢鱈と身体の動きに関する描写が多用されているのもそのためだろう。それと同時に、人間の内面世界に深く沈潜し、分人主義へと到達する一歩手前の、多人格を同価値・並列に扱う手法が試みられ、それゆえに沢野崇の複雑怪奇なキャラクターはそのまま作品の奥行き、深み、複雑さへと繋がってゆく。現代思想、現代アート、ネット・リテラシー、事件をめぐる報道やメディアの在り方、死刑制度、犯罪被害者と加害者家族の問題、いじめ問題、<幸福>というファシズムなどなど、社会が抱えるあらゆるトピックを呑み込みながら、立ち現れてくるのは、『日蝕』の巨人のような、現代日本の肖像とでも呼ぶべき、小説というレンズを通した巨大な実像(あるいは虚像なのか?)である。その圧倒的な体験の前で成すべきことは、中途半端な理解のまま140文字以内でつぶやくことではおそらくないはずだ。読むこと、読み返すこと。詰まるところ、読者である僕らにできるのはそれだけだし、まさにそれこそが、作品ひいてはその作者に、会うよりもなお近づくことができる最良の方法でもあるのだ。

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# by ok-computer | 2018-12-26 19:28 | | Trackback | Comments(0)