人気ブログランキング |

音楽の海岸

平野啓一郎『空白を満たしなさい』

 平野作品を読み進めてきて、個々の作品とは別に、それぞれの作品を縦断し、読み解く鍵として「愛し直す」「生き直す」というテーマがあることに段々と気づいてきたが、これはそれらが最もラジカルな形で顕われた小説かもしれない。この作品の主人公・土屋徹生は、死後3年経って突然「生き返った」男である。小説を読んでいて、こんなことをよく思いつくなー、と感じることがあるが、この作品を読んで思うのは、よくこんなアイデアで一冊の本を書き切ってしまえるなー、ということで、一歩間違えばトンデモ本になりかねないような題材を扱って、これだけの小説内リアリティを構築できることにまずは驚嘆させられる。

 小説は「なぜ生き返ったのか?」ということについては不思議なくらい淡白である一方で、死んでから3年後に生き返ったことで、その空白の期間に対する本人と家族や友人・知人との時間的・感情的なギャップ、また免許証が失効したり、死によって支払われた生命保険が「生き返った」ことで返金義務が発生するといった、想定外の事例に対する社会制度上の問題などを丁寧に辿ってゆく。文体は明晰であるとともに平易なもので、いつもながらの難解な漢字が時々出てくることを除けば、平野作品のなかでは最も読みやすい部類に入るのではないだろうか。これは複雑な(あるいは微妙な)テーマを分かりやすく述べていく、という意図ともに、単行本化の前に連載されていたのが『モーニング』という漫画雑誌であることを意識したものなのかもしれない。

 平野啓一郎は『日蝕』でもキリスト教を取り上げているが、「よみがえり」(この作品では「復生者」という言葉が用いられる)という題材についてキリストの「復活」を連想しないことは難しい。主人公が(2年でも4年でもなく)3年後に生き返った、という設定には、キリストが「3」日後に復活したことを意識させるし、その後に起きる消失という現象もキリストの昇天になぞらえることができる。さらに主人公が死の真相を知る重要な場面における「生きるために死ぬ」という概念(マーラーの『復活』みたいだ!)もキリスト教的文脈で捉えるといくらか理解できるような気がするし、佐伯という謎めいた人物はキリストに対するユダ的な存在であること、また主人公の妻もマグダラのマリア(原罪から解放される存在として)に重ね合わすことなどもできそうだ。

 この作品に関しては平野氏が提唱する「分人主義」ばかりにスポットライトが当てられるが(そして、それは間違いではないが)、それとは違った角度からの分析も可能ではないかと書いておきたい。『空白を満たしなさい』の文体や物語構造はシンプルであるのだが、その解釈は幾通りにも出来るようになっている。その意味で、やはり重層的で複雑な、典型的な平野作品であると言える。

 光に満ちた最終章においては、ランボーの『地獄の季節』の(あの一節の)イメージまでもが引用され、その筆致は平野作品にしては珍しく、限りなくウェットなもので、凝縮された生と死の描写のなかで、永遠は一瞬となり、一瞬は永遠となる。ストロークの痕に残されたものはほろ苦く、すべからく人生は期限付きのものであることを思い知らされる。

f0190773_16092946.jpg

by ok-computer | 2018-10-28 16:09 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://bends.exblog.jp/tb/30131385
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]