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音楽の海岸

平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』

 平野啓一郎が、公の場で何度も繰り返し発言していることに、自身が好きな本の条件として「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」というものがあるが、『「カッコいい」とは何か』について云えば、本篇が始まる前の、<はじめに>の部分だけでも既にその条件はクリアされている。日本で「カッコいい」という言葉が普及したのは、実はようやく1960年代のことであるなんて全く知らなかった。いや、そもそも「恰好が良い」と「カッコいい」とは意味合いが違うなんて考えもしなかった。さらには、「カッコいい」という言葉に「表面性」と「内実」との二元構造があるなんて思いも寄らなかった。最初のたった数ページで目からウロコを落としまくり、視界と思考をクリアにした上で、平野氏曰く「長い旅のような本」へと読者を誘ってゆくのだ。

<はじめ、平野さんが「カッコいい」を書くと聞いて「カッコいい」という言葉がピンとこなかった方も実はいらっしゃるのではないでしょうか。/私もその一人。「カッコいい」という言葉が自分の語彙になく、聞いてすぐに、それだ!とはなりませんでした。>

 先日配信された、平野啓一郎公式メールレターの中で、スタッフのささきさんが書いておられたこの一節を読んで、言い出せなかったけれど、実は自分もそう思ってた!と首肯した平野ファンも多かったのではないだろうか。しかしながら(或は当然のことながら)、そんな憂慮は杞憂だった。『「カッコいい」とは何か』は、ひとつのキーワード(=概念)から古今東西の人物・作品・事象・現象を読み解き、論考を深めてゆく、幻惑的なまでに衒学的な、ペダンチックを突き抜けてロマンティックな、まさに平野啓一郎の真骨頂とも云える一冊になっている。

 膨大な知識と情報量がストーリーラインと密接な関係性を持ちながら、うねりのような流れを生み出していくのは、『決壊』『ドーン』『マチネの終わりに』などで顕著な平野作品の特徴(のひとつ)であり、本書でもまた、文学・音楽・絵画・映画・ファッション・格闘技・政治などなど、多岐に渡るトピックが採り上げられるが、小説ではないので明確なストーリーラインというものはなく、その代わりに「カッコいい」という概念が、それらを縫い合わせてゆく糸のように(或は、曲芸の綱のように)なって論考が進められてゆく。そして、文学から格闘技にまで、その話題のいちいちが著者の好みのものであるということにも注目したい(それは、心地良い「分人」を生きる割合を多くする作家的試みなのかもしれない)。

 なかでも、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』と第5章『表面的か、実質的か』における、ファッション、そしてモードへの言及部分が個人的には興味深かった。この二つの章において、平野氏にしては珍しく(?)「普通」という言葉が頻発される。<「カッコいい」が普通以上であるのに対して、「カッコ悪い」は普通以下である。> <「カッコ悪い」人間は、自分たちの普通という感覚から悪い意味で逸脱している。> <それ(=「カッコ悪い」)は、普通とされる規範からの逸脱を意味しており、その乖離は、個人の羞恥心に於いても、社会の秩序観に於いても、解消されるべきであると考えられている。>(※原文では「普通」のいずれにも傍点が付されている)

 こう書くとバカみたいに思われるかもしれないが、個人的にはずっと、「平野啓一郎って、作家なのに何でこんな何時も<カッコいい>服装をしているのだろう?」と感じていた。作品は文句なく素晴らしいのだから、何も格好つけなくてもいいのではないか、いや寧ろ、ファッショナブルな外見は、作家としての内面(=作品)を誤解させる可能性だって孕んでいるのではないのか、とさえ考えていた。何か崇高なものをいきなり地べたに引き摺り下ろすような話をするようで恐縮だが、この第4章から第5章にかけて語られるのは、「平野啓一郎はなぜいつも<カッコいい>服装をしているのか?」という問いに対する答えである・・・まあ、これは冗談ではあるが、幾許かはマジである。平野啓一郎は、マイルス・デイヴィス、ジミー・ペイジ、ドラクロワ、アルチュール・ランボーのような、かつて(今も)憧れ共感した「カッコいい」存在に、自身も本気でなりたいと思っているのかもしれない(ジミー・ペイジがエルヴィスに憧れたように)。それは読者にとって平野氏を遠くて近い存在に感じさせるであろうし、「カッコいい」の、表層と実質の二元的な構造については本書で何度も繰り返されているが、換言すれば、(現代社会においては)実質(本質)だけではまだ足りない、ということも指摘できるのではないだろうか。

 閑話休題。平野ファンとしては、やはり本書がその小説作品とどのようにリンクしているのかは気になるところだろう。しかし、その前に本書の立ち位置みたいなものを確認しておこう。平野氏曰く、<本書は、小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本>だったとのことで、そのことからも、この新書が小説とは別に構想されてきたことが分かる。その意味では、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』とは、そのタイトルの連続性にも関わらず、少し異なったポジションにあることには留意しておきたい。つまり、『私とは何か』は、『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』と非常に密接な関係性にあり、極論すれば、それらの小説を注意深く読んでいれば、その内容はある程度事前に察知できるものである。そこに加えて平野氏自身の体験談や、現実においての汎用例などを交えて、分かりやすく解説したのが『私とは何か』であったならば、『「カッコいい」とは何か』には、前述のささき氏の指摘にもあるように、平野作品を熟読しているような熱心なファンであっても、その小説との連続性が見えてこない、まさに「ピンとこない」ような唐突感があるのかもしれない。だが、ここは重ねて言及しておきたいが、(目からウロコの)<はじめに>を経て、本篇を読み始めてみると、これまでの作品で平野氏が採り上げてきたテーマが、此処でも形を変えて追求されていることはすぐに承知されるだろう。曰く、<「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。>とあるように、「アイデンティティ」を巡る問題は、やはり本書でも繰り返され、変奏されるなかで、議論が深められてゆくのである。

 そして、『私とは何か』が、『ドーン』や『空白を満たしなさい』などを<捕捉>するものであったとするなら、『「カッコいい」とは何か』は、平野氏がその著作を通じて考察してきたなかで、(少なくともこれまでの)小説では充分に論考・展開できなかったことを、「カッコいい」という、ありふれているが故に、これまで誰からも真剣に分析されてこなかった概念を通じて、その作品群に留まらず、「民主主義と資本主義とが組み合わされた世界」の「人倫の空白」を<補完>する書物であると看做すことも出来るだろう。

<「カッコいい」には時間性があり、過去・現在・未来の中で、その価値を相対的に変化させてゆく。>

 上記は、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』の一節だが、この箇所を読んで『マチネの終わりに』の<未来は常に過去を変えている>という、未来と過去の逆説的な関係性についての台詞を想起する人は多いのではないだろうか。過去のカッコ悪い自分や恥ずかしい自分を無かったことはできないが、その後の生き方で変えていくことは出来る、というのはポジティブで魅力的な考え方だが、歴史修正主義のように政治的に悪用される恐れもあるだろう。本書の第9章『それは「男の美学」なのか?』では、「カッコいい」の政治的利用(=悪用)についても批判的に分析されていることは特に記しておきたい。

<ヒップは小さい円(サークル)から始まる。そのメンバーたちは、より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく。それぞれの円は、可能な限りのものを取り込んでいく。外側の円が追いつく頃には、内側の円は新たなコードを発明しなければならない。>(第6章『アトランティック・クロッシング!』より、ジョン・リーランド『ヒップ—アメリカにおけるかっこよさの系譜学』の引用) 

 本書には、これまで平野氏がその著作の中で書いてきたこと(論考してきたこと)、或はメディアやSNSを通じて発言してきたことなどが随所に見受けられる。重要なのは、それらが羅列されることではなく、「カッコいい」とは何か、を巡る考察において、過去から現在にまで至る、(文学・音楽・アート・ファッション・格闘技・政治などの)あらゆる人物・事物・事象に繋げてゆく、いわば「接続力」とでも言うべきもので、「可能な限りのものを取り込んで」ゆき、「より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく」ことである。そこには、(平野氏の)知性によって可知的な領域が拡大されるような快感があり、それが本書で何度も触れられている「経験する自己」というものを、読者にヴィヴィッドに感じさせてくれるに違いない。そしてまた、それは冒頭に記した「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」ということにも繋がっていく。

 一冊の本をこれほど(文字通り)貪るように読んだという体験は本当に久しぶりのことだった。「長い旅のような」この本を通じて「経験した自己」を「物語る自己」によって言語化することは、(その主旨から言っても)ごく自然な営みであろうし、おそらく本書を読んだ者であれば誰でも、自分が何処に「しびれた」のか、その体感を語りたくなり、おそらくは、それを誰かと共有したくもなるだろう。この拙い文章もその一つの試みであり、今後ブログやSNSを通じて、多数の『「カッコいい」とは何か』論が出てくるに違いないが、本篇結びの直前にあるように、<「カッコいい」には、人間にポジティヴな活動を促す大きな力がある。人と人とを結びつけ、新しい価値を創造し、社会を更新する>のであり、喜ばしいことに、われわれもまた、「カッコいい」とは何かを巡る、この「長い旅」に、マージナルな場所から参加することができるのだ。

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by ok-computer | 2019-07-09 17:31 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
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