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音楽の海岸

平野啓一郎『自由のこれから』に関する覚え書き、あるいは他者の言葉を借りて自己の本心を伝えようとすること。

 新型コロナウイルス感染症拡大による緊急事態宣言下において、読むべき本として多く挙げられていたのは、カミュ『ペスト』、ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』(←これは「コレラ」と「コロナ」を読み違えていたのでは?という疑念もあるが)、吉村萬壱『ボラード病』あたりだろうか。特にそれに異論は無いが、個人的にそれらの本と並んでお薦めしたいのが、平野啓一郎の『自由のこれから』だ。2017年にリリースされたこの新書は、コロナのような非常時における日本社会で起こり得る事象について驚くほど的確に予見していた上に、アフターコロナの社会、その社会における自由の様相、また人間の在り方について考える際にリファレンスとなる、今まさに必読の一冊である。


<人々が権利をどれだけ譲渡すればそのリスクが軽減されるかは誰にもわからないし、リスクに対する不安が主観的な不安である以上、自由の権利を全面的に差しだすことで不安を打ち消そうとすることだって考えられます。効果の有無の検証は二の次、三の次で。>
(『自由のこれから』p93)


 コロナ禍の(日本)社会において、個人的に何より違和感を憶えたのは、非常時だとは言え、公権力の介入による自由の制限を我々が余りにもあっさりと受け入れてしまったことである。いや、それ以上に、緊急事態宣言が発令された4月7日の直前には、「一刻も早く宣言を出して欲しい」という雰囲気さえ世の中に醸成されていたことを思い出す。
 アメリカのように、ロックダウンに抗議する住民が自動小銃などで武装し州議会議事堂に押し寄せるような事態が日本で起こることはもとより考えにくく、それは日本人が国家や資本の側の視点を過剰に内面化する傾向が強いが故であることは、斎藤幸平氏が『未来への大分岐』の中で指摘するところだが、日本においては、緊急事態宣言について、リベラルな人々(さらにはラジカルな人々)の間でも、殆ど議論の余地もないままに容認されていたことは間違いないだろう。

 海外ではどうだったのだろうか? 前述の『未来への大分岐』にも登場した哲学者、マルクス・ガブリエルは、Neue Zürcher Zeitung というスイスの新聞に寄稿した「緊急事態―都市封鎖は正当化できるのか?」というコラム(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8626)の中で、「まず、人と人との距離を十分に取ることで感染の連鎖を断ち切るのが、今、選択すべき正しい道の一つである(もちろん、それは間違いない!)」としつつも、「新たな掟が発令されている。ウイルス学的命令である。この命令は、人間社会が感染の連鎖であることを前提に行動せよという、すべての人へのお達しだ。個人は道徳的な行為者、つまり、人間としての尊厳の担い手としてはみなされず、むしろ、ウイルスの保菌者としてみなされているのである。」「要するに、疫学的モデルの感染拡大の論理に、公共的生活やあらゆるミクロレベルの意思決定を従わせる絶対的な命令は、多くの政治的決定を覆い隠している。自然科学的事実の政治的解釈は、それ自体としては自然科学的事実ではないので、ウイルス学的命令は自明なものではない。」と述べ、都市封鎖の正当性について疑問を投げかけている。それについて賛同するかどうかという以前に、そもそもこのような視点が表明される機会や余地が我々の社会に無かったことに一定の危惧を感じる。


<国家権力の監視対象になることを恐れて、自発的に自分の行動を規制するようになる。ーー偏向した教育や警察による見せしめ的逮捕、相互監視、密告、同調圧力、……と、環境の側からそうせざるを得なくなるように働きかける統治手法は、アーキテクチャやアフォーダンスで見てきたようなオートメーション化の技術と表裏を成している。(中略)こうした構造的な強制によって、自由意志が偽装される事態は、自由意志の遠隔操作、間接操作とも言うべき問題である。>
(『自由のこれから』p166-167)


 日本における緊急事態宣言は、休業要請などに顕著なように、基本的には強制力のない要請に留まっていたはずである。しかしながら、「自発的に自分の行動を規制するように」仕向けられたそれは、実質的には強制と何ら変わりがないものであり、要請であったにも関わらず、大阪府の吉村洋文知事が、休業に応じない一部のパチンコ店の名称を公表したのは象徴的な出来事であった(それが特別措置法に基づくものであったとしても)。これもまた、あくまでも法的な「要請」に対して、最終的にパチンコ店が「自発的に」従ったということになるのかもしれないが、「構造的な強制によって、自由意志が偽装される事態」であり、狡猾な統治手法だと指摘されても仕方が無いのではないか。

 私はパチンコ店やパチンコを嗜む人々に対して決して好印象を抱いてはいない。しかし、コロナ禍における彼らの扱われ方に関しては些かの同情心を禁じ得ないでいる。寡聞にして知らないだけかもしれないが、パチンコ店でクラスターが起きたという事例はどれほどあったのだろうか? 為政者が自分たちの存在意義、或いは「やってる感」を市民にアピールするために「仮想敵」として利用されたという側面はなかっただろうか? 問題は、再びこのような事態が発生した時に、為政者の恣意的な運用によって、次なる「仮想敵」が設定される可能性の芽が残ってしまったことである。今回はパチンコ店やライブハウスだったが、次回はあなたが所属する職場や団体がターゲットになるかもしれない。だから、そうならないように「自発的に自分の行動を規制するようになる」のだ。

 『自由のこれから』は、現代における「自由」と、これからの「自由」について思いを馳せながら、自由とは何か? 果たして私たちは自由なのか? という問いかけから始まって、平野氏と同世代の三人の専門家との対談を挟みながら、多層的に論考されてゆく。小説とは違うフィールドに「自由」という概念を放り投げてみることによって、どのように打ち返されるのか、それらが分野を横断するようなものになるのか、それとも異なる様相を帯びてくるのかを見極める、ハイレベルな思考実験のようでもある。

 ところで、本書を読んで想起した一人の人物が居る。
 弁護士の亀石倫子さんである。亀石さんのことを知ったのは2019年の参議院議員選挙に立候補者の一人としてとだったが、その選挙活動を通じて彼女が一貫して打ち出していた「自由に生きる」というテーマが取り分け印象に残った。亀石さんが担当した刑事事件について調べ、著書『刑事弁護人』(新田匡央さんとの共著)も読んでみた。GPS裁判、クラブ裁判、タトゥー裁判、ひいては政界へのチャレンジなど、亀石さんのこれまでの活動を横断し、結びつけるものが「自由に生きる」であり、それが侵害される事態には黙っていられない、見て見ぬフリは出来ない、というシンプルで力強いメッセージがそこに存在する。


<わたしが担当してきた事件は、「クラブに行かないから自分には関係ない」とか、「やましいことがなければ監視されることもない」とか「タトゥーは嫌いだし彫り師がいなくなったって困らない」って思われがち。そういう意味では、わたしが守ろうとしてきたのは「ささやかな自由」なのかもしれない。でも、その「ささやかな自由」は、当事者にとって「かけがえのない自由」だし、誰かの「ささやかな自由」が脅かされるのを放置していれば、いつか自分にとっての「かけがえのない自由」が脅かされる社会になってしまう。>
(亀石倫子インタビュー https://cdp-japan.jp/interview/20


 タトゥー裁判において亀石さんは、タトゥーの施術は医行為であるかどうか、医師法を巡る解釈のみならず、医師免許を要求するのは彫り師の「職業選択の自由」を侵害するのではないか、と憲法問題を争点としている。ここでもやはり「自由に生きる」という命題に辿り着く。我々には職業選択の自由が、法的にも実質的にも補償されているのだろうか?ジェンダーや出自、努力だけではどうにもならない先天的な条件で差別されてはいないだろうか?我々は本当の意味で自由なのだろうか?と。

 平野啓一郎さんも「分人主義」を論じる際に、この「職業選択の自由」の問題を何度も取り上げている。

<職業選択の自由を保証すれば、我々はそれぞれ給料のいいところを選んで就職し、必要のないところには自然と人が少なくなる。それが職業選択の自由という意味だと思います。
 しかし逆に言うと、若者たちに義務を課していることともいえます。常に誰かが補充されないと困るので、早く自分の個性を見つけて1つの仕事を見つけなさいと言うのです。10代の若さでそのことは、かなりのプレッシャーになるのではないでしょうか。好景気の時代ならまだしも、今のような不景気の時代には、終身雇用のように自分のアイデンティティと会社が深く強く結びついていると、その仕事に就けなかったり、途中で解雇されたりすれば心が病んでしまい、アイデンティティの危機につながってしまいます。
 そこで僕が提案したのが「分人」という考え方です。人は1つの個性で縛られるのではなく、いくつもの自分がいて、どれも自分であるというものです。それは職業の選択にも当てはめることが出来ます。>
(テレビ静岡『テレビ寺小屋』 第1965回「分人主義で職業選択を考える」 https://www.sut-tv.com/show/terakoya/backnumber/post_328/


 この職業選択の自由を巡る、亀石氏と平野氏の異なる視点からのアプローチはとても興味深いものに思われる。そして、その共鳴は何も私の思い込みというわけではない。2019年参院選の時期に二人は対談しており、2019年7月2日付twitterで、平野氏は「亀石さんみたいな人に国会議員になってほしいです。」とコメントしている。

 私が何より注目するのは、二人の「自由」に関する捉え方と、それが現在侵されつつあるという危機意識の持ちようであり、緊急事態宣言下で私権制限をほぼ議論されることが無いままに容認した我々は、それ故にこそ、アフターコロナの社会において、これからの「自由」についての議論と、その前提として「自由」という言葉の再定義が、不可避な課題として取り上げられる必要が生じるのではないか。

 先日、きゃりーぱみゅぱみゅさんの政治的な発言(個人的には、あれが「政治的」とされることにも違和感があるが)に対する賛否の議論が持ち上がった。私は、独裁国家でも無い限り、このような議論が起こること自体がナンセンスだと感じているが、特に気になったのは「何も知らないくせに、政治について語るな」という論調である。我々は小説を読んで、音楽を聴いて、映画を観て、その感想をネット上に書く。良いことも書けば、悪いと思ったことも書く。さて、あなたは小説について、音楽について、映画について「分かっている」のだろうか? 小説家は、音楽家は、映画人は、「分かっていない」人の意見をも許容する。むしろ分かっていない人の立場からの意見というものを尊重さえするだろう。小説家の、音楽家の、映画人の政治的発言を許容しないというのはどう考えてもフェアではない。彼らの発言が尊重されないということは、ひいては我々の声も尊重されないということである。

 完全には分からないままに発言することにも意味はある。先述の小説や音楽や映画に関する感想のように、実際のところ、我々はほとんどの事柄について分からないままに発言し、書いているのである。もちろん学んでゆくことを忘れてはならない。発言してみて、書いてみて、初めて誤りに気付かされることもある。その時に、相手を再起不能になるまでバッシングするのではなく、ある程度の誤りは社会的に許容してゆく、懐の深い寛容さを備えていなければ、今はバッシングする側であっても、いつバッシングされる側になってもおかしくはない。その逆もまた然りである。


<生産と消費を滞りなく円滑に進めていくために、個人の自由を常に「編集」しつつ、同時に、自由をリスクとして管理していこうとする社会。 本書では、絶対的に嫌悪される不自由から、ほとんど心地よくさえ感じられる不自由に至るまでの今日の自由の状況を概観しつつ、極端な悲観主義にも楽観主義にも陥らない「これから」を考えていきたい。>
(『自由のこれから』p7-8)


 現在(2020年5月)新聞連載中の平野氏の新作『本心』は、「リアル・アバター」を職業にする29歳の青年・朔也が、安楽死を望んだ(が、結局事故死した)母親の<本心>に辿り着こうとして、母のVF(バーチャル・フィギュア)製作を企業に依頼するところから始まる小説だが、その印象的なタイトルと、物語の端緒から、平野作品のデフォルトである<分人主義>を前提として、それなら人の<本心>とは一体何処にあるのか?と問いかけることによって、人間とは何か?という、平野作品に通底するテーマをまた新たな切り口から追求していると感じられて、おそらくそれは間違いではないのだろうが、『自由のこれから』について考え続けていて、『本心』のもう一つ大きなテーマが「自由/不自由」であることに思い至った。身体的な自由/不自由、持つ者と持たざる者との自由/不自由、職業選択の自由/不自由、恋愛の自由/不自由、死ぬ自由と生きる不自由、etc…。自己責任論では到底片付けることの出来ない、先天的・宿命的な自由/不自由と、後天的で自由意志の発揮による自由/不自由の狭間で、現在を生きようとする人間の本質を、気候変動、技術の進歩、経済格差の更なる広がりなど、現在の世界から高確率で予想される近未来社会のエピソードが(平野作品にしては珍しく)次々と繰り出される内に描かれるのである。


<世界って不確定なのが当然だよなって感じもあるんですよ。予想なんて難しいと。ふつうは、不確定なことが起きるとびっくりするじゃないですか。でもよくよく冷静に考えてみると、自分以外の人がこれだけ世界にはいっぱいいるのだから、不確定なことのほうが多いのが当たり前という事実に気づかされるんですよね。いままで、予測可能な世界をあまり根拠なく信じていたなって。>
(『自由のこれから』p141、上田泰己さんの発言)


 繰り返しになるが、この間の緊急事態宣言下において、私権制限が余儀なくされ、我々は不自由であることのストレスをイヤというほど思い知ったが、逆説的に「自由」について考える機会は増えたのではないだろうか。そして、こんな時期であるからこそ、多くの人がモヤモヤしたものを何だか分からないままに内部に抱えてもいるに違いない。一人ひとりが尊重される社会であるなら、そのモヤモヤした感情も尊重されるべきである。書物や音楽や映画やアートは、その模糊とした感情に輪郭を与えてくれる。表現されなければ、モヤモヤは体内に堆積されたままだが、表現されれば、体内からモヤモヤは流れて、誰かの共感に出会うかもしれない。書物の言葉を使って自分の輪郭をそっと撫でてみる。例えそれが借り物の言葉であってもいいではないか。借り物の言葉が、その言葉を借用した人の<本心>を浮かび上がらせることだって、きっとあるはずだから。

平野啓一郎『自由のこれから』に関する覚え書き、あるいは他者の言葉を借りて自己の本心を伝えようとすること。_f0190773_22343381.jpg

by ok-computer | 2020-05-29 00:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
Commented by 一児の母 at 2020-05-29 15:05 x
非常に面白く読ませて頂きました。
子供が生まれ、何かを考える余裕、本や絵画や音楽を楽しむ余裕のない日々を送っていましたが、久しぶりの感覚が蘇りました。
ありがとうございました。
Commented by ok-computer at 2020-05-29 18:23
コメントありがとうございます。
子育て、ご苦労さまです。

今回の文章はいつもとは少し趣が違うもので
どんな反応があるのか(或いは全く無いか)不安でしたが
緊急事態宣言下で感じたモヤモヤとしたことを
何らかの形で残したいと思って、書いてみました。

本文にも書いていますが、
下手でも表現すれば、それは体内から流れて
誰かの共感に出会うかもしれないと思っています。

ご反応、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。