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音楽の海岸

牧野楠葉『フェイク広告の巨匠』収録全作品のレビューを書いてみる。

「フェイク広告の巨匠」

 牧野氏の作品から感じられるのは、「今ここに在る」という感覚である。標題作をはじめ、物語が途中で(過程で)終わってしまっているような作品が多いのもその印象を強くする。そして牧野氏の小説で「いま、ここ」という感覚が最も表出されるのが「愛」を描く瞬間であり、フェイク(=嘘)だらけのこの社会において、それでも愛(純愛)は成立するのか、という命題が追求されている。

 虚構の世界とはいえ、その試みが簡単に成功するはずもなく、主人公の佐藤がミニへの愛に気づく時、同時にその愛は幻影であったことを知る。愛を追い求めた結果、むしろ愛の不可能性が露わになるというジレンマに出くわすことになるのだが、愛情が強迫観念であり、愛の成就がフェイクに過ぎないのだとしても、その過程で持ちえた感情はリアルではないのか?と突き付けられるようでもある。「今ここに在る」ことの実感が強くページに焼き付けられる時、影の部分もそれに応じて色濃いものとなり、その光と闇のコントラストと振れ幅の中に、牧野氏の個性を見る。

 太陽にとけこむ海、そして永遠をみつけるために、牧野氏はその作品を通して純愛を再定義しようとしているのだ。


「蛸やったら、」

「なあ、兄さん、あんたうちのこと可哀想やおもてるやろ? わかんねん、だから嫌やねん、ありありとわかるよ、それ。あのな、もちろん同情より金やで。でもな、自分に巣食うもんってついさっき出会った男でなんとかならんやろ」(p84) 

 葛飾北斎と彼の春画「蛸と海女」を題材にしつつ、自由に創作した(であろう)もの。原画では蛸に較べて没個性的であるように思える女性の姿を、「フランク」や「シナプス」といった当時の日本には無かった言葉を交えながら活き活きと描き、北斎作品に対する新たな視点を引き出す。わずか10ページの掌編だが、牧野氏の才能を存分に知らしめてくれる。


「くらくらと美味しそうな黄色のイチョウ」

 成り行きで彫刻家と結婚した男。ある日、外出した妻が食卓に残した白い箱を開けると、そこには自分のものではない陰茎の彫刻があった・・・。 

 近しいが故に、より強く他者性を意識させられる夫婦という関係を簡潔にして的確に描いていて鮮やか。「くらくら」という擬態語の、適切かどうかはともかく、絶妙な響きとして感じられる言葉選択のセンスも素晴らしい。彫刻の形状を別にすれば、オーセンティックと言っても差し支えない端正な作品。


「くたびれもうけ」

 一晩の遊びでできた子どもを堕胎した東京の女がお遍路にやって来る。堕ろした子どもが自分を憎んでいるか知りたくて・・・。

 タイトルと物語の関連性はよく分からず。しかしながら、アイデア倒れに終わることなく、駅前に住む初老の男や寺で出会った中古車販売業の男など、魅力的な脇役が出てくる上に、捻った展開もあって、最初とは違う地点へと主人公と読者を連れてゆく筆運びは見事。堕ろした子の気持ちを知ろうなど親の身勝手なエゴに過ぎないが、愛とはエゴでもある。牧野氏の掌編はどれも良いな。


「新代田から」

 服用すると予知夢を見るドラッグを飲んだところ、いまだに引き摺っている元カレの葬式を見てしまった主人公モクが、友人と共に元カレを探す旅に出る・・・。

 一緒に探す友人が本当は自分のことを好きで、彼と一緒にいるほうが幸せになるのは分かっているのに(利用もしているのに)、暴力的で破滅的な元カレのことが忘れられない 、それは理屈じゃないんだよね、という感覚がとてもよく書かれていて、かなり荒唐無稽な話であるにも関わらず、その通底に迸る心象風景は誰しもが(多かれ少なかれ)経験するものなので、読んでいて手に余るような印象はなく、放たれる言葉の数々が不思議なほど感情の襞にフィットしていく。

「わかりたくない、Qちゃん、あたし、わかりたくない。うん、全然わかりたくない」(p142-143)

 謎の予知夢薬を飲むと愛し合っている同士や愛してるものの夢しか見ない、という設定はやや強引に思えるが、マーシー(モクの元カレ)もそのドラッグを飲んでいて、モクと同じように、彼の葬式の場面を見ていたことをモク(と読者)が知ったとき、一緒に居ても居なくても幸せにはなれなかった二人を小説にしか出来ないやり方で結び付けてみせた、その余りに向こうみずなロマンティシズムに笑った。いや、泣いた。

牧野楠葉『フェイク広告の巨匠』収録全作品のレビューを書いてみる。_f0190773_18123450.jpg

by ok-computer | 2022-04-28 18:15 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)