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音楽の海岸

最近読んだ本(『ひよこ太陽』『金閣寺』『服従』ほか)

柳美里『JR上野駅公園口』

死者の視点によって、時空間を行き来しながら、点描画的、或は被写界深度の浅い写真を集積したような、独特の幻想的な作風。「在るひとに、無いひとの気持ちは解らない」ことの表れか、主人公の内面描写は比較的浅め。幸福な結末を期待した訳ではないが、やはり切ない。

田中慎弥『ひよこ太陽』

田中さんの作品は初読み。イメージとは異なり、此処には性も暴力も無いが、その予兆の孕みのようなものは慥かに感じられて、なるほどこれが現代の無頼というものなのかもしれない。芥川賞受賞会見は個人的には逆効果だったが、この本で一気に挽回。他の作品も読んでみたくなった。

三島由紀夫『金閣寺』

初めて読んだ高校時代には、士官の前で女が茶の中へ白い乳を迸らせる場面で、無理!と投げ出したのだが、今読み返してみると、一つひとつの要素は異様であったとしても、それらエピソードの有機的な積み重ねによるクライマックスへと至る、その物語運びの巧みなことに驚かされた。平野啓一郎は「『金閣寺』と出会わなかったら小説家になっていません」と語っているが、僕は逆に、平野作品に出会さなければ『金閣寺』を最後まで読み終えることは出来なかっただろう。投げ出したくなる度に、平野さんが僕を鼓舞し、励ましてくれたような気がする。

ミシェル・ウエルベック『服従』

ユイスマンス研究を専門とし、女子学生と気ままな関係を弄ぶ飄々とした大学教授を主人公に、極右かイスラームか、という究極の選択の末に、イスラーム政権が成立した2022年という超近未来のフランスを描く。ミイラ取りが何とやらで、ユイスマンスの人生を奇妙になぞってゆくかのようで、結局のところ、ユイスマンスは「改宗」だが、この主人公は「服従」であるということか。途中に描かれるテロが最後まで読んでも動機も犯人も判然としないのが不気味だ。

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# by ok-computer | 2019-08-11 09:38 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

『Depth 2019』(大野浩志・岡本里栄・山崎亨)@ Oギャラリーeyes

 山崎さんによれば、作家の組み合わせはギャラリー側のチョイスで、「仲良し3人組ではない」とのことですが、微妙にシンクロ、またはリンクする部分があったのが面白かったです。また、ぼくがお伺いしたときには、3人とも在廊されていて、それぞれに興味深いお話を聞けたので以下にメモします。


山崎亨さん
『眼のドライブ-Lose focus』(1・2枚目)『眼のドライブ-此処彼処』(3枚目)

 ぼくだけでなく、ギャラリーに来る多くの方に「これは絵ですか?」と質問されていました(笑)。部屋の明るさとライティングの調整によってモノクロに近い環境を整えながらもカラーで撮影している、そして越前和紙にインクジェットでプリントしていることなどが、その絵画のような質感をもたらしているのかもしれません。

 作品は、紙による造形物を写真で撮ったものを提示しているのですが、なぜ立体作品そのものを展示しようとしないのですか?と質問したところ、「20年ほど立体作品に取り組んでいたが、結局その立体作品もカメラで撮って残していくことに気づいた」、また「写真のほうが多角的に表現できる」とのことでした。立体作品を、写真という本来フラットなはずのメディアに収めながら、ボカシを効果的に使って改めて立体的に表現する、というメタ構造的な提示方法が見る者に考える機会を提供することになり、刺激的だと感じます。


大野浩志さん
『在り方・現れ方 2019A-5』(4枚目。2019A-6だったかも?)

 棒を配した画面が真っ黒に塗られており、よく見るとその画面上には、夜の海に立つさざ波のようなスジが入っている。ご本人に「これは何を表現しているのですか?」と聞けば、何を表現するのではなく、自然とそこに現われるものを提示しているという旨のことを仰っていて、技法的には、支持体(木)に、ペインティングナイフを使って、油絵具(黒だと思ったが、プルーシャンブルー)で「縦に」何度も何度も繰り返し重ね塗る。そうすると(不思議なことに)水面に立つ波のような模様が「横に」現われるとのこと。

『BLUE 18-A1、BLUE 18-A2』(5枚目。18-B1、18-B2だったかも?)

 紙とアクリル板にアクリル絵具を塗って、デカルコマニーの手法で作成されたイメージを、紙の上にアクリル板を重ねる形にして展示。自然発生の葉脈のような模様が印象的。デカルコマニーなのに、左右のイメージに大きな差異があるのは、紙を乾かすときに水平にするのと、立てて乾かす(つまり、絵具が流れ落ちる)ことによって生まれているとのことでした。


岡本里栄さん
『Pillow and towels』『Summer blanket』(6・7・8枚目)『Blue striped shirt』(9枚目右)

 これまでの岡本さんの諸作品からは想像できなかった、「青」が一際目を惹きます。しかも岡本さんだけに、その「青」は普通の青であるはずもなく、「岡本ブルー」とでも表現したくなるようなものです(ご本人はコバルトに近い色を作ったと仰っていましたが)。

 今回、青を使ったのは、そもそもシーツが青だったこともあるが、この6月に奈良で開いた展覧会以来、対象を引き寄せるのではなく、自身の作品を対象に引き寄せるというのもいいのではないか、と思ったとのことです。

 また、以前「人」をモチーフに描いていたときには、肖像画とは違うことを強調したくて横画面を採用していたが、今回のように「身体の抜け殻」を表現するときには「人の不在」を感じてもらいたくて、あえて肖像画のような縦画面を採用している、というのも興味深く、特に此処に記しておきます。

 以前、岡本さんにお会いしたときに、「作品の原動力となっているのは怒りだが、描いているときは無心になっている」という旨のお話を聞いて、それをずっと考え続けているのですが、なるほど、この「青」は無心の境地を表現したとも受け取れるのですが、写真ではなく、実物を見ていると、そのタッチはますます奔放に、荒々しいと言ってもいいようなものになっていることが確認できて、「怒り」から「無心」への昇華の過程をそこに見ることもまた可能だと思いました。

 岡本さんといえば、アキーラとユポという、画材と支持体の目新しさが一番に取り上げられがちですが(また取り上げやすいのですが)、そろそろ論じる側がその点を克服しなければならないレベルに達しつつあるのではないでしょうか。岡本さんにははっきりとは伝え損ねたのですが、『Summer blanket』と『Pillow and towels』に関して言えば、贔屓目抜きに、傑作だと思います。

 ※写真はスマホで撮ったものです。

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# by ok-computer | 2019-08-04 13:14 | アート | Trackback | Comments(0)

21世紀のベスト・アルバム(これまでのところ)<24>

Brad Mehldau / Highway Rider

メルドーのオリジナル曲だけで占められた2枚組だと知ると、聴く前には身構えてしまうが、パット・メセニー風コーラス入りのフュージョン、ビッグバンド、現代音楽、果ては人力ドラムンベースまで、手を変え品を変え、聴き手を退屈させないアルバムの流れの巧みさ、そしてクオリティは一貫して高く、夢中で聴き終えることができた。なかでも、最後の「Always Departing」と「Always Returning」のメドレーの盛り上がりは筆舌に尽くし難い。

ブラッド・メルドー、カマシ・ワシントン、ロバート・グラスパー、ティグラン・ハマシアン、ゴーゴー・ペンギンなど、今ジャズはふたたび面白くなっているのではないか。




# by ok-computer | 2019-07-15 22:19 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

 わが『小板橋』論  

 明治から昭和の時代にかけて活躍した歌人・石上露子(大阪府富田林市出身)の代表作として名高い『小板橋』において、繰り返される単語が三つある。それは「小板橋」「夕」、そして「うばら」である。決して長くはないその詩歌の中で、繰り返されるこれらの単語の中には、作者が強調したいイメージと何らかの伝えたいメッセージとが含まれていると考えるのが自然なことだろう。勿論、作者がどのように考えていたかは今となっては定かではない。しかし、出来うる限り作者の想いに寄り添って、どのような意図を持って書かれたのか想像してみることは、読書をする際の大きな楽しみであるには違いない。この稿においては、これら三つの言葉を足掛かりにして『小板橋』を自分なりに読み解いてゆきたいと思う。

 ゆきずりのわが小板橋
 しらしらとひと枝のうばら
 いづこより流れか寄りし
 君まつと踏みし夕に
 いひしらず沁みて匂ひき

 今はとて思ひ痛みて
 君が名も夢も捨てむと
 嘆きつつ夕渡れば
 あゝうばらあともとどめず
 小板橋ひとりゆらめく


①「小板橋」について

 この明星派女流歌人の絶唱とも言われる詩歌のタイトルに冠された橋は残念ながら現存しない。富田林寺内町の南側、大阪府富田林市を南北に流れる大和川水系の一級河川「石川」沿いに広がる竹林の中に、その跡を伝える案内標があるばかりである。付近には今もなお河岸段丘上の田畑を潤す水路があり、その何処かに小板橋が架かっていたと考えられている。

 日本でも近代化が始まっていた明治時代の建造物の在った場所が判然としないというのは少し不思議な気もするが、当時から「小板橋」という名、あるいはその存在さえも、決して多くの人が知るところではなかったのかもしれない。ここで注目しておきたいのは、「ゆきずりのわが小板橋」という部分において、わざわざ「わが」小板橋と書いている点で、わたしの、と強調することにより、橋に個人的な意味合いを付与し、初恋の人に対する露子のかなわぬ想いを託すメタファーとして、その知られざる慎ましやかな橋の名が、詩歌の中で繰り返されるばかりでなく、あまつさえタイトルにまで採られたのである。

 さらにもう一歩「誤読力」を押し進めてみるならば、なるほど水路に小さな橋のようなものは架かっていたのかもしれないが、それを「小板橋」と呼んでいたのは露子とその恋人だけで、それは二人の間だけに通じる隠語のようなものだったのではないかとも勘繰ってみたくなる。無論これは極端な推測であることは承知しているが、石上露子が明星派の詩人であったことを鑑みれば、このようなロマンティックな解釈もアリではないかと思う。


②「夕(ゆうべ)」について

 『小板橋』の二つのパラグラフの間には時間的な隔たりがあり、その間に二人を引き裂く決定的な出来事があったのだと読むことができる。そんな悲しい出来事を間に挟んだ二日の情景が詠われているわけだが、いずれもが夕刻であるというのは、封建的な家父長制度の暮らしの中で、露子が家事から解放されて、河原にでも出てくることのできる時間が夕方しかなかったということが想像できる。これについては露子の他の短歌を見れば、さらに納得されるのではないか。

 月見草
 ふたたびおなじ
 夕暮の
 河原に咲けど
 誰に摘むべき

 これは『小板橋』の後半部分に近い時期、つまり別れの後に詠われたものであろう。「ふたたびおなじ」夕暮れと河原に咲く月見草、しかし、そこにはただ貴方だけがいない。

 そしてまた、詩歌や短歌といった、限られたフォルムの中で、詠み手の心象風景を手早く読者に理解してもらう為に、「夕」という共有し易い言葉が用いられている側面もあるのだろう。叶うことのなかった初恋と強制された結婚、現在ほど長寿社会ではなかった当時、それは日の盛りを思わせる青春の終わりであり、得体の知れない夜を迎える前の、人生の夕暮れ時だと感ぜられたのかもしれない。


③「うばら」について

 「うばら」とは「野ばら」のことである。「野ばら」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのはゲーテの詩であった。シューベルトの歌曲でも有名なこの詩は、それが故に、曲の一番の部分(詩の最初のパラグラフ)だけを聴いて(読んで)、少年が野に咲くバラを見つけるという、無邪気な「子どもの情景」を詠ったに過ぎないと考える人もいるかもしれないが、以降を読むと、バラというのが若い女性のメタファーであり、かつて彼女と何らかの関係があったことが示唆されているのを感じ取るのはそれほど難しいことではない。実際のところ、「少年」はゲーテ自身を、「野ばら」はフリーデリーケという女性を指しており、彼らの恋愛体験に基づいて詩が生まれたことは後年の研究から判明している。

 露子がここで「うばら」と詠むとき、そこにゲーテの「野ばら」を読み替えて、若き日の失われた恋の象徴として、それを重ね合わせたと見るのは穿ちすぎであろうか。近藤朔風が「野ばら」を日本語に翻訳したものを発表したのは1909年であり、露子が『小板橋』を「明星」誌上で発表したのは1907年なので、近藤訳を参照したのではないのは事実だが、ゲーテの詩が既に日本に入ってきていたこともまた然りであり(Wikipedia:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「日本における受容」の項目参照)、露子が海外文学に造詣が深かったことも聞き及んでいる。

 アリストテレスは『詩学』の中で、詩と歴史を比較して、歴史が起こった事実を語るゆえに個別的であるのに対して、詩はいかにも起こりそうなこと=真実らしいことを語るがゆえに普遍性をもつ、とした。「いづこより流れか寄りし」の「いづこ」とはゲーテの住むドイツであり、遠くヨーロッパの異国から時空間を超えて流れ着いた野ばらが、その悲恋の象徴としてふたたび匂い立つことは(詩の世界では)いかにも起こりそうではないだろうか。そして、ゲーテと石上露子が「野ばら」を介してひとつに結ばれるのは、事実よりもなお真実らしいことなのではあるまいか。

 いずれにしろ、恋人とともに「あとをとどめず」消えてしまった「うばら」の行方を追うことは尽きない興味である。


・最後に

 石上露子が残した作品は決して多くはない。ましてや、その作品の資料については輪をかけて僅かなものであろう。それは至極残念なことではあるが、作品を後世の人が自由に解釈できる「余白」をたっぷりと残してくれたのだと前向きに捉えることもできる。勿論そう捉えるだけでなく、その「余白」を満たすためにも、我々は作品を自分なりに解釈し、それを何らかの形で記してゆくことが重要であるのは言うまでもない。事実はひとつかもしれないが、真実は人の数だけあり得る。露子の作品を読み、それぞれの解釈について語り合い、一人ひとりの『「わが」石上露子』が集積されることによって、余白が満たされ、新たな「石上露子」像が立ち現れてくることを願って止まない。

Wikipedia「石上露子」のページ


参考文献
・平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践 』(PHP新書)
・『富田林百景+「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!』より「小板橋を訪ねて」
・『野ばらプロジェクト』より「詩 | ゲーテ21歳、恋をする。」(https://nobara-project.com/gedicht/)
・日本大百科全書(小学館)より「真実らしさ(佐々木健一)」

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寺内町の南側に広がる竹林の中に立てられた小板橋跡の案内標。
ただし、これはオフィシャルなものではないそうです。
また、非常にワイルドな場所に設置されているので、撮影するときには望遠レンズが必要。

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この付近の水路の何処かに「小板橋」が架かっていたと考えられています。これが現代の小板橋なのか!?

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或は此処か?
跡を留めぬ小板橋の在処を自分なりに探してみるのも一興。

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石上露子が暮らした富田林寺内町にある「本町公園」には、石上露子記念碑が建ち、地域の人々の憩いの場となっています。

# by ok-computer | 2019-07-12 19:01 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』

 平野啓一郎が、公の場で何度も繰り返し発言していることに、自身が好きな本の条件として「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」というものがあるが、『「カッコいい」とは何か』について云えば、本篇が始まる前の、<はじめに>の部分だけでも既にその条件はクリアされている。日本で「カッコいい」という言葉が普及したのは、実はようやく1960年代のことであるなんて全く知らなかった。いや、そもそも「恰好が良い」と「カッコいい」とは意味合いが違うなんて考えもしなかった。さらには、「カッコいい」という言葉に「表面性」と「内実」との二元構造があるなんて思いも寄らなかった。最初のたった数ページで目からウロコを落としまくり、視界と思考をクリアにした上で、平野氏曰く「長い旅のような本」へと読者を誘ってゆくのだ。

<はじめ、平野さんが「カッコいい」を書くと聞いて「カッコいい」という言葉がピンとこなかった方も実はいらっしゃるのではないでしょうか。/私もその一人。「カッコいい」という言葉が自分の語彙になく、聞いてすぐに、それだ!とはなりませんでした。>

 先日配信された、平野啓一郎公式メールレターの中で、スタッフのささきさんが書いておられたこの一節を読んで、言い出せなかったけれど、実は自分もそう思ってた!と首肯した平野ファンも多かったのではないだろうか。しかしながら(或は当然のことながら)、そんな憂慮は杞憂だった。『「カッコいい」とは何か』は、ひとつのキーワード(=概念)から古今東西の人物・作品・事象・現象を読み解き、論考を深めてゆく、幻惑的なまでに衒学的な、ペダンチックを突き抜けてロマンティックな、まさに平野啓一郎の真骨頂とも云える一冊になっている。

 膨大な知識と情報量がストーリーラインと密接な関係性を持ちながら、うねりのような流れを生み出していくのは、『決壊』『ドーン』『マチネの終わりに』などで顕著な平野作品の特徴(のひとつ)であり、本書でもまた、文学・音楽・絵画・映画・ファッション・格闘技・政治などなど、多岐に渡るトピックが採り上げられるが、小説ではないので明確なストーリーラインというものはなく、その代わりに「カッコいい」という概念が、それらを縫い合わせてゆく糸のように(或は、曲芸の綱のように)なって論考が進められてゆく。そして、文学から格闘技にまで、その話題のいちいちが著者の好みのものであるということにも注目したい(それは、心地良い「分人」を生きる割合を多くする作家的試みなのかもしれない)。

 なかでも、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』と第5章『表面的か、実質的か』における、ファッション、そしてモードへの言及部分が個人的には興味深かった。この二つの章において、平野氏にしては珍しく(?)「普通」という言葉が頻発される。<「カッコいい」が普通以上であるのに対して、「カッコ悪い」は普通以下である。> <「カッコ悪い」人間は、自分たちの普通という感覚から悪い意味で逸脱している。> <それ(=「カッコ悪い」)は、普通とされる規範からの逸脱を意味しており、その乖離は、個人の羞恥心に於いても、社会の秩序観に於いても、解消されるべきであると考えられている。>(※原文では「普通」のいずれにも傍点が付されている)

 こう書くとバカみたいに思われるかもしれないが、個人的にはずっと、「平野啓一郎って、作家なのに何でこんな何時も<カッコいい>服装をしているのだろう?」と感じていた。作品は文句なく素晴らしいのだから、何も格好つけなくてもいいのではないか、いや寧ろ、ファッショナブルな外見は、作家としての内面(=作品)を誤解させる可能性だって孕んでいるのではないのか、とさえ考えていた。何か崇高なものをいきなり地べたに引き摺り下ろすような話をするようで恐縮だが、この第4章から第5章にかけて語られるのは、「平野啓一郎はなぜいつも<カッコいい>服装をしているのか?」という問いに対する答えである・・・まあ、これは冗談ではあるが、幾許かはマジである。平野啓一郎は、マイルス・デイヴィス、ジミー・ペイジ、ドラクロワ、アルチュール・ランボーのような、かつて(今も)憧れ共感した「カッコいい」存在に、自身も本気でなりたいと思っているのかもしれない(ジミー・ペイジがエルヴィスに憧れたように)。それは読者にとって平野氏を遠くて近い存在に感じさせるであろうし、「カッコいい」の、表層と実質の二元的な構造については本書で何度も繰り返されているが、換言すれば、(現代社会においては)実質(本質)だけではまだ足りない、ということも指摘できるのではないだろうか。

 閑話休題。平野ファンとしては、やはり本書がその小説作品とどのようにリンクしているのかは気になるところだろう。しかし、その前に本書の立ち位置みたいなものを確認しておこう。平野氏曰く、<本書は、小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本>だったとのことで、そのことからも、この新書が小説とは別に構想されてきたことが分かる。その意味では、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』とは、そのタイトルの連続性にも関わらず、少し異なったポジションにあることには留意しておきたい。つまり、『私とは何か』は、『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』と非常に密接な関係性にあり、極論すれば、それらの小説を注意深く読んでいれば、その内容はある程度事前に察知できるものである。そこに加えて平野氏自身の体験談や、現実においての汎用例などを交えて、分かりやすく解説したのが『私とは何か』であったならば、『「カッコいい」とは何か』には、前述のささき氏の指摘にもあるように、平野作品を熟読しているような熱心なファンであっても、その小説との連続性が見えてこない、まさに「ピンとこない」ような唐突感があるのかもしれない。だが、ここは重ねて言及しておきたいが、(目からウロコの)<はじめに>を経て、本篇を読み始めてみると、これまでの作品で平野氏が採り上げてきたテーマが、此処でも形を変えて追求されていることはすぐに承知されるだろう。曰く、<「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。>とあるように、「アイデンティティ」を巡る問題は、やはり本書でも繰り返され、変奏されるなかで、議論が深められてゆくのである。

 そして、『私とは何か』が、『ドーン』や『空白を満たしなさい』などを<捕捉>するものであったとするなら、『「カッコいい」とは何か』は、平野氏がその著作を通じて考察してきたなかで、(少なくともこれまでの)小説では充分に論考・展開できなかったことを、「カッコいい」という、ありふれているが故に、これまで誰からも真剣に分析されてこなかった概念を通じて、その作品群に留まらず、「民主主義と資本主義とが組み合わされた世界」の「人倫の空白」を<補完>する書物であると看做すことも出来るだろう。

<「カッコいい」には時間性があり、過去・現在・未来の中で、その価値を相対的に変化させてゆく。>

 上記は、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』の一節だが、この箇所を読んで『マチネの終わりに』の<未来は常に過去を変えている>という、未来と過去の逆説的な関係性についての台詞を想起する人は多いのではないだろうか。過去のカッコ悪い自分や恥ずかしい自分を無かったことはできないが、その後の生き方で変えていくことは出来る、というのはポジティブで魅力的な考え方だが、歴史修正主義のように政治的に悪用される恐れもあるだろう。本書の第9章『それは「男の美学」なのか?』では、「カッコいい」の政治的利用(=悪用)についても批判的に分析されていることは特に記しておきたい。

<ヒップは小さい円(サークル)から始まる。そのメンバーたちは、より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく。それぞれの円は、可能な限りのものを取り込んでいく。外側の円が追いつく頃には、内側の円は新たなコードを発明しなければならない。>(第6章『アトランティック・クロッシング!』より、ジョン・リーランド『ヒップ—アメリカにおけるかっこよさの系譜学』の引用) 

 本書には、これまで平野氏がその著作の中で書いてきたこと(論考してきたこと)、或はメディアやSNSを通じて発言してきたことなどが随所に見受けられる。重要なのは、それらが羅列されることではなく、「カッコいい」とは何か、を巡る考察において、過去から現在にまで至る、(文学・音楽・アート・ファッション・格闘技・政治などの)あらゆる人物・事物・事象に繋げてゆく、いわば「接続力」とでも言うべきもので、「可能な限りのものを取り込んで」ゆき、「より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく」ことである。そこには、(平野氏の)知性によって可知的な領域が拡大されるような快感があり、それが本書で何度も触れられている「経験する自己」というものを、読者にヴィヴィッドに感じさせてくれるに違いない。そしてまた、それは冒頭に記した「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」ということにも繋がっていく。

 一冊の本をこれほど(文字通り)貪るように読んだという体験は本当に久しぶりのことだった。「長い旅のような」この本を通じて「経験した自己」を「物語る自己」によって言語化することは、(その主旨から言っても)ごく自然な営みであろうし、おそらく本書を読んだ者であれば誰でも、自分が何処に「しびれた」のか、その体感を語りたくなり、おそらくは、それを誰かと共有したくもなるだろう。この拙い文章もその一つの試みであり、今後ブログやSNSを通じて、多数の『「カッコいい」とは何か』論が出てくるに違いないが、本篇結びの直前にあるように、<「カッコいい」には、人間にポジティヴな活動を促す大きな力がある。人と人とを結びつけ、新しい価値を創造し、社会を更新する>のであり、喜ばしいことに、われわれもまた、「カッコいい」とは何かを巡る、この「長い旅」に、マージナルな場所から参加することができるのだ。

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# by ok-computer | 2019-07-09 17:31 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)