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カテゴリ:本( 40 )

平野啓一郎『ある男』(2回目)

 平野啓一郎『ある男』を読了(2回目)。

 最初にこの作品を(「文學界」2018年6月号で)手に取った時には、まだ平野氏の作品は『マチネの終わりに』と短編集『透明な迷宮』しか読んだことがなかった。しかし、今回再読するまでの間に、それらに加えて更に5作品を読み進めたこともあって、複数の作品に通底するテーマや、彼が提唱している分人主義(「個人」に対する概念で、本当の自分などというものは存在せず、対人相手ごとにその関係性の中で生まれる「分人」の集合体が「自分」であり、人の個性は、その「分人」の構成比率によって決定される、というような考え方)についてもある程度理解が及ぶようになってきた。そうすると、半年を置かずに読んでいるはずの作品の細部に、決して忘れてしまっていたということ(だけ)ではなく、違った角度から光が差し込んで、最初読んだときには深く考えもせず読み飛ばしていたような一行に、その意味するところの奥行きを感じ取れるようになったことは、ある意味で初見時よりも新鮮な発見に満ちた読書体験となり得たし、そもそも作品がそのように(=何度読んでも耐えられるように)精巧に作られていることに思い至るにあたって、深く感じ入ることとなった。

 とは言え、初めて『ある男』を読んだときも間違いなく良作であることは確信していたものの、『マチネの終わりに』と較べると、分量的に少なく、物語の舞台(世界を股にかけて描かれる『マチネの終わりに』に較べ、『ある男』は横浜・東京・名古屋・宮﨑と国内の移動に留まっている)や構造(物語を織り成すレイヤーの厚み)においてもスケールダウンした印象があり、それがやや物足りないと感じていた。しかし、今こう書いてみて自分でもよく分かったが、それは同じ理由で『羊をめぐる冒険』が『1Q84』よりも劣ると(愚かにも)言ってしまうような、表面的で浅い読み方しか出来ていなかったことの裏返しだったのだと痛感する。

 先述の「複数の作品に通底するテーマ」について言えば、とくに近作では、生き延びるために「生き直す」、愛を持続させるために「愛し直す」ということが平野文学の重要なテーマとなっていることは論を俟たないだろう。『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』といった作品の中でも、それら二項目が背反することなく、他の様々なテーマやエピソードと並列して描かれている。そう、今挙げた作品群においては、「生き直す」「愛し直す」というテーマはもちろん重要ではあるが、縦軸と横軸が複雑に絡まってゆく、現代の総合小説とでも言うべき、その多層的な物語構造の中では、何よりも際立っているとは言い切れない部分があった。

 しかしながら、『ある男』においては、多層的なテーマ(死刑制度、ヘイトスピーチ、犯罪被害者家族と加害者家族の問題など)は維持しながらも、作品を構成するレイヤーはやや薄くなり(初読では物足りなく思えた部分)、代わりにこれまでにも追求されてきた「生き直す」「愛し直す」というテーマが抽出されて結晶化したような趣と美しさとがある。

 繰り返すことになるが、これまでにもこれら二つのテーマは平野氏の小説の中で様々なかたちで追求されてきた。『ある男』の主人公である、城戸という弁護士が思い煩う、愛が冷めたという訳ではなく、長年連れ添ってきた夫婦の必然でもある倦怠についても、既に『ドーン』において(もう少し若いカップルで)検証・考察されていたが、さらに経年して、中年世代のアイデンティティ・クライシスという新たなテーマを加えながら変奏・再考されている。

 『ドーン』の火星有人探査プロジェクトやアメリカ大統領選、『かたちだけの愛』の芸能界やプロダクトデザインの世界、『空白を満たしなさい』の<よみがえり>現象といった、華やかであったり、突飛であったりした舞台背景はもはや必要なく、日本国内の平均的な都市や辺鄙な田舎町に暮らす市井の人々のありきたりな生活の中の、決してありきたりではない孤独や哀しみ、逃れることのできない出自などに、透徹した筆致でありながらも優しい眼差しをもって寄り添ってゆく。「愛」や「思いやり」といった、扱い方によっては鼻白んでしまいそうなテーマに果敢に挑み、それを描き切ったところにこそ、作者の成熟を見る思いがする(そして、それを一読したときには分からなかった己の不明を恥じることになる)。

 二度目の読書が終わって、再び『ある男』の序文に戻ってみると、「城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じでいた。(中略)そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。」という一文に(改めて)出会わすことになる。他人を通して自分を知ることこそは、まさに文学がこれまでずっと成してきたことであり、今もなお小説が必要とされる理由でもある。そして、素晴らしいアート作品に触れたときに感じる、いつまでも消えずにいてほしいと願う余韻の中で、目を瞠る思いで、作者である平野啓一郎氏の背中を見つめ直すことになる。ある偉大な小説家と同時代を生きることの幸福を噛み締めながら。

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by ok-computer | 2018-12-08 19:46 | | Trackback | Comments(0)

朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

 朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』を読了。

 テレビのトークバラエティで、現代における文学の立ち位置や他人の作品に対する氏の鋭い考察を聞いて、「これだけの分析力を持った人であれば、作品自体も面白いかも?」と思ったのが本書を手に取ることになったきっかけ。

 結論から言うとこれはなかなか面白かった。文体や物語設定はエンタメ小説的だが、登場人物の内面描写の鋭さや作品構成の面白さは純文学のそれで、両方のいいとこ取りと言っていいような小説であると感じた。もっとも、この美点はそのままこの作品の欠点だと言い換えることも出来るというか、つまりは、どっちつかずの中途半端な作品だと言えなくもないのだが、ぼくにとってそれは瑣末なことであって、美点のほうが遥かに大きく感じられた。

 この小説のユニークな点のひとつは、タイトルになっている「桐島くん」は会話やモノローグの中で言及されるのみで、物語に登場することが無いところ。この手法はどこか映画的で、同じくタイトルになっているにも関わらず、最後まで顔が映らず、ずっと死んだまま(!)のヒッチコックの『ハリーの災難』を思い出した。登場人物のひとりが映画部の部長で、彼の目を通して描かれる章では、「『メゾン・ド・ヒミコ』もよかったし、やっぱ犬童一心最高!」「レンズを通して見る世界は、普段は見えない感情に満ちていてとてつもなく美しい。」というようなシネフィル的な記述に満ちているので、意識している部分もあるのかもしれない。

 また、平野啓一郎的に分析してみるならば、「桐島くん」の周囲の人間の、「桐島くん」との関係性の中で生じたそれぞれの<分人>が全編に渡って描かれている、と看做すことも出来そうだ。その複数の、桐島くんとの<分人>が小説的に集積されているために、本人不在であっても、小説が終わった後にはちゃんと「桐島くん」の人となりみたいなものが立ち現れてくる仕掛けになっている。

 その文体は軽いを超えて、最初はチャラいくらいに感じられたのだが、読み進めていくと、そこには計算があり、ちゃんとコントロールも効いていることが分かってくる。「宮部実果」の章のクライマックスでは、もっと泣けるように持っていくことも可能だったはずだが、おそらく全体のバランスを考えて、抑制をはたらかせている(つまり、手紙の内容を明かさない)ところなど、この作品を世に出したときに朝井氏がまだ19歳だったことを思えば、上手過ぎて小憎たらしくなってしまうほどだ。

 子どもでもなければ大人でもない、16でもなければ18でもない、17歳の高校生たちの揺らぎみたいなものが、この小説では実にヴィヴィッドに切り取られている。朝井リョウが19歳だったことを、作品の技術的なエクスキューズにする必要はまったくと言っていいほど無い。それよりも、<17才の記憶>が薄れてしまう前に、ノスタルジーという甘い罠に塗り替えられてしまう前に、作者がそれを小説として真空パックしてみせたことに大きな意義と、かけがえのない魅力を感じる。

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by ok-computer | 2018-11-30 08:38 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『日蝕』

 平野啓一郎『日蝕』の感想を『日蝕』風の文体で書いてみる。

 これより私は、平野啓一郎『日蝕』の個人的な感想を録そうと思っている。人はこの頗(すこぶ)る難解な書に対して、径(ただ)ちに嫌悪を挿むであろう。私はこれを咎めるものではないが、冀(こいねがわくは)、この書を単行本よりもルビの多い文庫本で読むことを進言したいと思う。然(さ)すれば、辞書を引く手間も幾許か省かれるであろう。

 抑(そもそも)、初期の平野啓一郎が三島由紀夫の影響を受けていることには論を須(ま)たない。『日蝕』は、『金閣寺』の仏教(日本)をキリスト教(中世フランス)に、金閣寺への放火を魔女狩りに置き換えて、脱構築、あるいは記号論的分析を試みたと看做すことも出来るのではあるまいか。更に云えば、三島が『金閣寺』を著すにあたって参照したと謂われる森鴎外の姿も其処からは透けて見えてくるのである。

 その晦渋な文体は、物語世界に浸らんとする読者に常に覚醒することを求め、その衒学性が為に中途で停滞せんこと能わぬのである。慥(たし)かにこの文体故にこそ『日蝕』と云う書は際立っている。然(しか)し乍(なが)ら、斯様な面ばかりに囚われることは太陽を裸眼で見遣れば盲になるが如く、本質へと迫る視点が失われるとも思うのである。

 本書の最高潮たる、日蝕の蒼穹(そら)の下で処される焚刑の場面の迫力は筆舌に尽くし難いが、其処に先立つ、神学僧ニコラが洞内で石に縛(いまし)められた両性具有者(アンドロギュノス)と初めて出会(でくわ)す際の、この世界の裡なる別の層が裏返って露になったが如き、美とエロチシズムとの名状し難い一体性の顕現にこそ本書の真髄を見る想いがするのである。

 『日蝕』を十全に理解したかと問われれば、否、と答えるしか無い。しかし、徒(いたずら)にこう思ってみるのである。
 蓋(けだ)し、アンドロギュノスは金閣寺の夢を見たのではないか、と。

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by ok-computer | 2018-11-23 08:09 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『かたちだけの愛』

 平野啓一郎については、毎回ガラっと変わる物語設定や、初期とその後との文体の変化などがよく指摘されるが、何冊か読み進めていけば、そういった表面上の差異を超えて、一貫したテーマが複数の作品の中に通奏低音のように流れていることに気付かされる。なかでも「生き直す」と「愛し直す」という概念は、平野作品を読み解く上で重要なキーワードになっているように思える。

 この『かたちだけの愛』では、叶世久美子という、事故で片足を失った女優(タレント?)が諦めかけた人生に再び光明を見出していく過程と、相良郁哉という、離婚を経験し愛を見失ったプロダクト・デザイナーの男が(相手を変えてではあるが)人を愛するという感情(概念)を取り戻してゆく姿とが、同時並行的、あるいは混ざり合う形で、実にきめ細やかに描かれていく。

 そのハイライトは何と言ってもラヴェルのピアノ協奏曲第二楽章をバックに主人公の二人の手がわずかに触れ合うシーン。愛の始まりをこれほど格調高く、かつ美しく表現した小説を他に知らない。『マチネの終わりに』でもそうだったが、音楽を小説的に表現していく上での、緻密な描写とその言葉の選択の巧みさについてもまた比類がないくらいに素晴らしい。(単行本では)143ページ後半から144ページにかけての、「二人の関係の余白を、音楽がその透明な糸でやさしく縫い合わせていく」一連のシークエンスはまさに絶美と言っていい。(ちなみにこの場面で流れるのは、クリスティアン・ツィメルマンのピアノとピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏で、ぼくも愛聴している盤だったので嬉しかった)

 主人公たちの職業を反映して、専門用語やブランド名/アーティスト名などの固有名詞が続出し、村上龍のある種の作品のように記号論的な趣もあるにはあるが、「断端」や「幻痛」といったあまり聞き馴れない言葉が、小説の中で繰り返し使われていく内に、展開される物語のテーマと密接に絡み合って、単に名称や症例を顕す以上の隠喩的な意味合いを帯びてくる(帯びさせてゆく)のを読んでいると、(平野氏についてよく言われる)「知識のひけらかし」などという誹りはまるで見当違いであることを確信させるとともに、言葉の力を信じ、その言葉をクリエイティブかつ自由に操ることのできる小説家のみが辿り着くことのできる深遠を垣間見させてくれる。

 入り組んだ物語、張り巡らされた伏線、それぞれが独立的な複数のテーマの同時進行(ポリフォニー)、さらには、前述のラヴェルのコンチェルトや、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』と『刺青』、そしてエイミー・マリンズ(アメリカの義足のアスリート/女優)への言及など、一見作家の興味の赴くままに並べられたかのような諸要素が、小説が後半に向かうに連れてパズルのピースのように有機的かつ意外な驚きを伴って繋ぎ合わされてゆき、最後には一幅の大きな絵が完成する。それは(登場人物の台詞を借りれば)「目覚めたまま見る夢」であり「この瞬間が、永遠に続いて欲しいと思うような夢」でもある。そして、作者である平野啓一郎は、その<愛の夢>を小説という形で永遠に定着させてみせたのだ。
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by ok-computer | 2018-11-12 18:00 | | Trackback | Comments(0)

村田沙耶香『地球星人』

 村田沙耶香『地球星人』を読了。

 『コンビニ人間』を読んで感激し、その後『殺人出産』を読んでよく分からなくなったため、芥川賞受賞後初となるこの作品は期待半分不安半分で手に取った。

 結果、『コンビニ人間』よりは『殺人出産』寄りの作品であり、タイトルから想起されるSF的な文脈においては、平野啓一郎『ドーン』よりも安部公房『人間そっくり』寄りの作品で、いわば作家の「脳内SF」とでも形容したくなるような内容となっている。

 その内容を端的に言ってしまえば、「あなたがたは地球星人だと言い切れるのですか?」。恐ろしく受け身で無抵抗主義な主人公(『コンビニ人間』や『殺人出産』の主人公に通じる)の言動や(ポハピピンポボピア星人としての)目を通して、常識、普通、正義、道理といった通常の倫理観や社会規範に揺さぶりをかけてくる。

 『コンビニ人間』は作者自身が勤務経験のあるコンビニを舞台としたことで広く共有/共感できる内容となっていたが、今回は再び脳内世界へと回帰してしまっている。小説家としてのキャリアを考えた場合、それは賢明な判断だとはとても言えないように思えるが、『コンビニ人間』100万部の読者を奈落の底へと叩き落とすのも構わずに、その作家性をあくまでも貫き通したことは、「普通」や「常識」を心底忌み嫌う(ように見える)この作者に相応しいのではないか。

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by ok-computer | 2018-11-01 21:22 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『空白を満たしなさい』

 平野作品を読み進めてきて、個々の作品とは別に、それぞれの作品を縦断し、読み解く鍵として「愛し直す」「生き直す」というテーマがあることに段々と気づいてきたが、これはそれらが最もラジカルな形で顕われた小説かもしれない。この作品の主人公・土屋徹生は、死後3年経って突然「生き返った」男である。小説を読んでいて、こんなことをよく思いつくなー、と感じることがあるが、この作品を読んで思うのは、よくこんなアイデアで一冊の本を書き切ってしまえるなー、ということで、一歩間違えばトンデモ本になりかねないような題材を扱って、これだけの小説内リアリティを構築できることにまずは驚嘆させられる。

 小説は「なぜ生き返ったのか?」ということについては不思議なくらい淡白である一方で、死んでから3年後に生き返ったことで、その空白の期間に対する本人と家族や友人・知人との時間的・感情的なギャップ、また免許証が失効したり、死によって支払われた生命保険が「生き返った」ことで返金義務が発生するといった、想定外の事例に対する社会制度上の問題などを丁寧に辿ってゆく。文体は明晰であるとともに平易なもので、いつもながらの難解な漢字が時々出てくることを除けば、平野作品のなかでは最も読みやすい部類に入るのではないだろうか。これは複雑な(あるいは微妙な)テーマを分かりやすく述べていく、という意図ともに、単行本化の前に連載されていたのが『モーニング』という漫画雑誌であることを意識したものなのかもしれない。

 平野啓一郎は『日蝕』でもキリスト教を取り上げているが、「よみがえり」(この作品では「復生者」という言葉が用いられる)という題材についてキリストの「復活」を連想しないことは難しい。主人公が(2年でも4年でもなく)3年後に生き返った、という設定には、キリストが「3」日後に復活したことを意識させるし、その後に起きる消失という現象もキリストの昇天になぞらえることができる。さらに主人公が死の真相を知る重要な場面における「生きるために死ぬ」という概念(マーラーの『復活』みたいだ!)もキリスト教的文脈で捉えるといくらか理解できるような気がするし、佐伯という謎めいた人物はキリストに対するユダ的な存在であること、また主人公の妻もマグダラのマリア(原罪から解放される存在として)に重ね合わすことなどもできそうだ。

 この作品に関しては平野氏が提唱する「分人主義」ばかりにスポットライトが当てられるが(そして、それは間違いではないが)、それとは違った角度からの分析も可能ではないかと書いておきたい。『空白を満たしなさい』の文体や物語構造はシンプルであるのだが、その解釈は幾通りにも出来るようになっている。その意味で、やはり重層的で複雑な、典型的な平野作品であると言える。

 光に満ちた最終章においては、ランボーの『地獄の季節』の(あの一節の)イメージまでもが引用され、その筆致は平野作品にしては珍しく、限りなくウェットなもので、凝縮された生と死の描写のなかで、永遠は一瞬となり、一瞬は永遠となる。ストロークの痕に残されたものはほろ苦く、すべからく人生は期限付きのものであることを思い知らされる。

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by ok-computer | 2018-10-28 16:09 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『ドーン』

 純文学系の作家によるSF小説と言えば(個人的には)安部公房の『人間そっくり』が思い出されるが、「夢みているのは、文学のなかでの、SF精神の復権」と言いながらもその実、自身の世界観を補強するパーツとして使っているのではないかという疑念が拭えない『人間そっくり』に較べると(ちなみに『人間そっくり』自体は傑作だと思ってますが)、『ドーン』は完璧なるSF小説でありながら、完璧なラブ・ストーリーでもあり、また同時に完璧な純文学作品でもあるという、平野啓一郎の離れ業的な筆力に(またしても)圧倒されるような思いがした。
 
 注目すべきなのは、『ある男』で骨格の中心を成す「なりすまし」という事象がすでにこの作品で取り上げられていることで、過去と地続きの(現在の)自分である限り、未来の可能性も限定されたものにならざるを得ないという絶望感、あるいは、もっと単純に誰もが持つ変身願望が、近未来の高度情報氾濫+監視社会の中で(「可塑整形」という仮想の技術に裏付けされながら)小説内リアリティをもって描かれている。

 小説の中に出てくる、「散影 divisuals」「可塑整形」「添加現実 Augmented Reality」「代替銃」「ロボノート」「メルクビーンプ星人」といったトピック/アイテムは、『マチネの終わりに』や『ある男』で時事・社会問題が扱われていたのと等価値・等量を持って、作品の随所に配置されるが、そんなSF的小道具に彩られた近未来の世界は夢物語ではなく、(むしろハードな)それらを透過することによって、婉曲的に現代社会が抱える問題を照射し、ひとつひとつ考察されてゆく。

 単行本(ソフトカバー)で500ページ弱という、分量だけで言っても手強い小説には違いないが、胸を打つ最終章まで読み終えてみると、よくこれだけ(たくさん)の題材が練り込まれた重層的な物語を(たった)これだけの分量に収めたものだと感心するのは『マチネの終わりに』と同様だった。

 テーマの多層性、物語の多層性(有人火星探査機内でのドラマ、地球帰還後にクルーが巻き込まれるアメリカ大統領選を巡るドラマ、小説共作サイト<ウィキノベル>という物語内物語(小説全体がウィキノベルであるという見方もできる))、人物の多層性(分人主義 dividualism)が、単に積み重ねられるだけでなく、3Dレイヤーの如く、縦横に交差さらには奥行きの方向も加わり、最終的には大聖堂のような(あるいは表紙のモノリス?のような)巨大な建造物が立ち現れてくる。その中で祈られるのは、やはり「愛」。失われた子どもへの愛、冷えきった夫婦の愛、閉じられた宇宙空間での「不適切な」愛、すべての愛は失われていくように思われる。しかし、小説が不時着してしまいそうなその直前に、物語を書くという、あまりに(あまりにも!)小説的な行為を通して、主人公(佐野明日人)は光明を見出していく。<未来は常に過去を変えていく>、『マチネの終わりに』で花開くテーマがすでにここに顕われていることに感動を禁じ得ない。

<ただ後ろを振り返れば良かっただけのことのために、自分には一億キロもの往復の道のりと、十年もの時間が必要だったのだと、彼は思った>

 それはまるで無重力空間における綱渡りのような曲芸。愛し直すこと、愛し続けること。小説が描くその高みに目が眩みそうだ。

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by ok-computer | 2018-10-15 20:57 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『ある男』

 「文學界」2018年6月号に掲載された、平野啓一郎の新作『ある男』を読了。 

 人は人生を生き直すことができるのか?人は人を愛し直すことができるのか?そして、それができたとするならば、人生にとって、愛にとって、過去とは一体何なのか? 

 『マチネの終わりに』のなかの「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。」という台詞(本が紹介される際に最も引用されている箇所)に込められたテーマが別の物語を使って変奏され、さらに深く追求されてゆく。

 その主題以外にも、小説に含まれる多数のトピック(東日本大震災・ヘイトスピーチに代表されるような近年の日本を覆う排外主義・犯罪の被害者遺族と加害者家族両方が背負う厳しい現実・中年の危機と夫婦の倦怠、など)は、主題を補助するための伴奏ではなく、副主題と言えるような重要性を持って、小説にポリフォニックな拡がりをもたらす。

 ある男の隠された(隠そうとした)人生にのめり込んでいく城戸章良という弁護士の姿を追った今作は、主人公が知り得たものと同じだけの情報しか読者に与えられないミステリー仕立てになっており、読者は最後まで途切れることのない緊張感に導かれながら、ストーリーテリングの面白さと圧倒的な知性に裏付けられた濃密な読書体験を味わうことができる。加えて、唐突にも思えるような第21章のエピソードは、小説が終わっても解決されることのないもうひとつのミステリーとして、小骨が喉に刺さったような余韻を残す。

 作中人物の少年が書いた、<蛻(ぬけがら)にいかに響くか蝉の声>という俳句はこの小説を端的に優れて表現しているように思える。過去は蝉の蛻のようなもので、登場人物たちはじっとその蛻を見つめ続ける。そして、作者である平野啓一郎は、その蛻に少しだけ彩色して、そっとわれわれに差し出してみせるのだ。

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by ok-computer | 2018-07-31 11:26 | | Trackback | Comments(0)

レイモンド・チャンドラー『水底の女』

レイモンド・チャンドラーの『水底の女(湖中の女)』を読了。
村上春樹による新訳シリーズの最後となる一冊。

この新訳シリーズの表紙についていつも思っているのですが、作者のチャンドラーの名前よりも訳者の村上春樹の名前のほうがフォントサイズが大きいのには違和感を憶えてしまいます。以前にもこちらで、そのうち表紙からチャンドラーの名前が消えてしまうのではないか?と冗談を書いたのですが、さすがにそれは無かった(笑)。しかしながら、作者より訳者の名前が大きく表記されているのは今回も同じで、作品総体としては、村上春樹はチャンドラーを超えているかもしれないけれど、村上春樹は『ロング・グッドバイ』に匹敵する作品を(今のところ)書いていないと思っているのでやはり違和感を拭うことができません。まあ個人的な見解ですが。

それはそれとして、チャンドラー・ファンにとっては(おそらく)賛否両論の村上訳ですが、掛け値なしに評価できるのは、これまでの清水俊二の翻訳版ではカットされていた部分を復元した「完訳」版だということ。清水さんは余りにまわりくどいということでテンポ良くするためにカットしたのかもしれないですが、その持って回ったような文章表現や、主人公の探偵フィリップ・マーロウのまわりくどい行動こそが(時にやり過ぎになるとはいえ)チャンドラーの真骨頂なので、日本語でしか読めない読者にとってはこれは本当にありがたいことでした。一方で、村上さん自身があとがきで述べているように、<「ハードボイルド」ミステリー作品としてではなく、固定されたジャンルを超えた普遍的な小説作品として(中略)あの素晴らしい、そしてオリジナルな文体を、細かいところまでできるだけ原文に忠実に、日本語に置き換えてみたかった>が故に、ハードボイルドな雰囲気は減退し、直訳調の文章はところどころ言わんとするところを汲み取るのが難しい部分があって、ぼくは清水訳版を参照して「そうだったのか!」と思ったりしたこともありました。

いずれにしろ(色々感じるところがあるとはいえ)『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』以外のチャンドラーの長編作品はどれも一度しか読んだことがなかったので、新訳本の発行を機に改めてチャンドラーの作品を読み返すことができたうえに、とくに『さよなら、愛しい人(さらば愛しき女よ)』と、この『水底の女』に関しては、最初に読んだときよりずっと面白い作品であることに気付かされたのは大きな収穫でした。正直なところ、ロジカルな整合性という部分ではチャンドラーの作品には甘いところがあるのですが、初見では気になってしまうそういったところ以外の、活き活きとした会話の妙や、くどいくらいに婉曲的な比喩表現(村上春樹に通じる部分)をたっぷりと楽しむことができたのはとても貴重な読書体験となりました。

ますます進むガラパゴス化と日本スゴイ!病で(?)海外小説の翻訳作業は風前の灯ですが、そんな状況でも海外小説の積極的な紹介を柴田元幸さんとふたりで支え続けている村上春樹さんの存在は(文句言いつつも)やはりスゴイ!と認識し直した次第でもあります。

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by ok-computer | 2018-02-01 21:34 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『マチネの終わりに』

平野啓一郎の『マチネの終わりに』を読了。今年最後に読んだ小説は今年最高の読書体験となった。

平野啓一郎氏については、デビュー作『日蝕』が芥川賞を受賞した際のメディア報道の印象から、三島由紀夫かぶれの晦渋な文章を書くスカした作家だと勝手に思い込んでしまい、今の今までその小説を読むことがなかった自分を酷く恥じ入っている。なんて素晴らしい作品! なんて素晴らしいエンディング!(時々、読めないような難しい漢字は出てきますが)

実はこの作品を読む少し前に『TALKIN’ジャズ×文学』という、ジャズ評論家の小川隆夫氏との対談本は読んでいて、そこでの対談相手以上の音楽に対する博識と、その理知的・論理的な語り口に驚嘆させられたこともあって、『マチネの終わりに』を手にしたという部分もあったのだが、恋愛小説であるのと同時に、音楽(家)小説でもあるこの作品における、音楽についての描写の緻密さ・臨場感(リアリティ)・言葉の選択の素晴らしさ・美しさに関しては、ちょっと他には比類がないくらいで、楽器も弾けない・譜面も読めないぼくがそう感じるくらいだから、楽器(特にギター)が弾ける人・音楽理論に詳しい人なら、この小説をさらに楽しめるに違いない(もちろん、そうでなくても最高に楽しめる)。

400ページ余りという、決して短くはない小説だが、音楽・文学・映画・アートなどに関する膨大な知識と、ユーゴスラビア紛争・イラク戦争・欧州難民危機・テロリズム・リーマンショック・東日本大震災などの世界が直面する諸問題を縦糸やら横糸に絡めながら多層的に展開する物語を思えば、よくこれだけのマテリアルをこれだけの分量に収めたものだと感心してしまう。そして何より凄いのは、それらのトピックがただ単に小説の時代背景として配置されているのではなく、二人の関係性を左右する大きな要因として、ストーリーと密着した形で機能し、描かれてゆく点にあるのだと思う。

読者にはすべての情報が与えられ、いわば神の視点から登場人物たちを眺めるような構造になっていて、彼らの悲劇的なすれ違いがどんな運命を辿るのか?ということが一番の興味となって読み進めていくことになるので、必然エンディングは重要になるのだが、(もちろん詳しくは書かないが)これ以上だと白けてしまうし、これ以下だとあまりに切なすぎるという、ギリギリのところで、平野啓一郎はこれしかない!という最高の和音を奏でてみせる。それは読む者の心のなかでいつまでもいつまでも止むことなく響く。

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第2回プラチナブロガーコンテスト



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by ok-computer | 2017-12-30 08:55 | | Trackback | Comments(0)