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音楽の海岸

カテゴリ:本( 46 )

最近読んだ本(『ニムロッド』『82年生まれ、キム・ジヨン』ほか)

上田岳弘『ニムロッド』

とりあえずamazonに掲載されているレビューは信用しなくていい。何も無い所から価値を生み出すという点において、小説と仮想通貨を結びつける慧眼、そして、様々なマテリアルとトピックをモザイク状に配置して一幅の作品を編み上げるその手腕に驚嘆した。短いが確かな読み応えがある。

朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』

巧みにコーティングされてはいるものの、政治的とも言ってもいいくらいにメッセージ色が濃い。あの朝井リョウでさえ(失礼)も書かずにはいられないほど、昨今の日本社会に対する危機感は強いということか。「何もないところに無理やり対立を生んで、やっと、存在を感じられる」というのは平成という時代を優れて言い表している。作者が現代日本文学の最前線に躍り出たことを示す力作。

イアン・マキューアン『アムステルダム』

死んだ1人の女性を巡る、4人の男たちの渦巻く虚栄心と、巧みな伏線が張り巡らされたプロット。最後に笑うのは誰か?「ひとつ条件がある。君も同じようにしてくれること」。予想はできなかったけれど、振り返ると納得するしかない結末に唸らされた。音楽ファンにとっては、「グレツキをインテリ向けにしたような作曲家」と形容される作曲家クライヴ・リンリーのモデルについて推察するのも一興(ジョン・タヴナーかな?)。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

告発の書であり、問題提議の小説ではあるが、その筆致はどことなくユーモラスであり、小説的な感興にも不足していない。だが、描かれる内容は重く、ここにある男女格差や社会システムの歪みは日本でもそのまま当て嵌まることに何より愕然とさせられる。読後にはモヤモヤしたものが残るが、安易な結末にしなかったのは正解。いろんな意味で今必読の一冊だと言えるだろう。

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by ok-computer | 2019-05-05 16:43 | | Trackback | Comments(0)

最近読んだ本(『何様』『献灯使』ほか)

朝井リョウ『何様』

『桐島』や『何者』のチャラい文体が、キャラクターや作者自身の成長に合わせて洗練されたものに変化して、ますます作品に隙が無くなってきている。タイトル作など、理詰めで読者を説得しようとする余りに説教臭くなる局面もあるが、見事なオチで一蹴。上手い、べらぼうに上手い。

平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』

創作を通じてのカフカや安部公房の再解釈、現代美術に対する批評、引きこもりやPTSDといった社会問題に対する考察など、様々なスタイルと仕掛けで様々なテーマが作品の中で論考され、読み手に対して熟考と内省を促す、ずっしりとした重厚な読み応え。

多和田葉子『献灯使』

恍けたユーモアや言葉遊びの奥には常に不穏な響きが胎動する。ディストピア小説という位置付けだが、海外の読者から見れば、日本のリアリティある未来予想図だと受け止められているのかもしれない。無名の15歳のシーンはすべて今際の際の夢だと感じたが如何なものか?

柳美里『ゴールドラッシュ』

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という命題を、横浜市黄金町の地べたに生きる市井の人々の、哲学的になり過ぎないリアリティのある言葉と多人称的構成で考察していく。圧倒的な読書体験だが、消化し切れなかった部分も。きっとまた読み返すことになるだろう。

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by ok-computer | 2019-03-27 19:27 | | Trackback | Comments(0)

柳美里『家族シネマ』

 柳美里『家族シネマ』を読了。

 もっと陰々滅々なものを想像していたが、主人公と彫刻家とのやり取りなど、結構笑える(笑うしかない)ような場面が多くて、ジョン・アーヴィング的な味わいも感じられた。小説内映画という、虚構の入れ子構造を採っているのも、距離を置いて、フィルターを通しつつテーマを扱いたいという作者の意図の表れではないだろうか。

 銭湯の合わせ鏡の中で主人公と少女がお互いを眺めまわすくだりが印象的で、相手の無防備な姿と、普段は見ることのない自分の後ろ姿とが鏡の中で交錯する。それはまた、別の場面で、お互いに母親に似ている点をあげつらっては非難し合う姉妹の姿とも重なり、崩壊してもなお、その呪縛から抜け出すこと叶わぬ「家族」を描くこの作品を優れて象徴している。

 柳さんの別の作品も読んでみたくなった(次は『ゴールドラッシュ』かな)。

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by ok-computer | 2019-02-01 16:54 | | Trackback | Comments(0)

朝井リョウ『何者』

 元旦にNHKラジオ第1で放送された『高橋源一郎の「平成文学論」』のなかで、高橋さんが平成を代表する三冊のうちの一つに挙げていたこと、また先日読んだ『桐島、部活やめるってよ』が存外面白かったこともあって、手に取ってみたのですが、これがまた滅法面白い小説でした。

 これだけ面白いのだから、また直木賞受賞作なのだから、きっとこの本は純文学ではないのでしょう。では、一体「純文学」とは何なのでしょう?ウィキペディアによると、<大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語>であり、<北村透谷の評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』において、「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」として定義された>とあります。ふむ、分かったような分からんような。。。

 もしかしたら、映画に置き換えてみると分かりすいのかもしれません。ハリウッド映画と、ヨーロッパやインディーズ系の映画との違い。ハリウッド映画は豪華で華やか、特撮も見事で、観ている間はその世界に浸って楽しむことができますが、映画館を出てしまえば、すぐにその内容など忘れてしまって、「晩ご飯に何食べようか?」などと、普段の生活へとスムーズに戻ることができる。一方で後者は、テーマは抽象的、ストーリーラインは不明瞭、アンチ・ハッピーエンディングということで、観賞後すっきりしないことも多いですが、上手くいけば、強烈な映画体験として、いつまでも観る者の心に残ることとなる・・・というのは、あまりに紋切り型で単純化し過ぎだとは思いますが、ごく大まかに捉えれば、そのようなものではないでしょうか。

 その一方で、例えばマーティン・スコセッシやクリストファー・ノーランの映画は、実質的にはハリウッド映画であるにも関わらず、その偉大性がゆえに誰も彼らの作品(『バットマン』を除く)を「ハリウッド映画」であるとは言いません。

 つまり、いまだに大衆小説(ハリウッド映画)が純文学(ヨーロッパ映画)よりも芸術的に低いもの(!)だと看做されているのであれば、ぼくは『何者』をエンタメ小説だと言い切りたくはない、ということです。たしかに『何者』の文体は軽いです、というか、チャラい、と太文字で形容したくなるくらいです。しかしながら、平成という時代を舞台に、活き活きとした若者(大学生)の生態を、そして「就活」という人生の局面を、文化人類学的に、かつ、台詞と地の文とのギャップを感じさせずにリアリティを持って描くのであれば、この文体は必然だと言えるのではないでしょうか。それに較べれば、村上春樹の『海辺のカフカ』の主人公、15歳の少年「僕」の内的独白はずっと大人びてはいますが、まるでリアリティが無いとも言えるでしょう(そういう意味で村上春樹は『海辺のカフカ』で、15歳のリアルではなく、神話的世界を描きたかったのだと言えます)。

 それはともかくとして、『何者』においては、その軽やかな文体にも関わらず、それらを駆使して表現された内省は深く、登場人物の(おそらくは)無意識的なままの行動や、意識の表面にまではなかなか浮上してこないような心理を描き、そして、それらを丁寧に掬い上げるために、作品はエピソードの積み重ねを中心に構成されており、明確なストーリーラインは存在せず、中心となる6人(そのうちの一人は、桐島くんと同じく、作品に直接登場することはない)がそれぞれに抱える問題は最後のページに辿り着いても何一つ解決されることはありません。まるでヨーロッパ映画みたいです。あるいは、純文学か?大衆小説か?と論じてみること自体、あまり意味のないことなのかもしれませんが、読み終わったらすぐに忘れてしまうような小説とは異なり、その手法とその「ひっかかり」具合において『何者』には、やはり純文学的なものを強く感じます(逆に、ドラマティックなストーリーテリングを期待すると肩透かしを食らうのかも)。

 自分がまだ何者なのか分からないのに、何者かであるフリをして、トランプのブラフみたいに、裏向きでカードを差し出す。友人との自分、先輩との自分、バイト先での自分、就活や面接での社会的な自分、twitterやfacebookのアカウント毎の自分・・・・この作品は「就活」という特殊な状況から帰納して、ネット時代におけるアイデンティティの問題を鋭く描き出すことに成功していると言えます。そして、それはまた、暗い真実であるのかもしれません。

 だからこそと言うべきか、安全な場所から眺めている(読んでいる)と思ったら、いきなり刀の切っ先がこちらに向けられたかのような、後半の展開には相当なインパクトがありました。読者は語り手に共感する(しやすい)という習性を逆手に取った、その絶妙なトリックは、それゆえに、その場面における、理香が拓人に放つ言葉のいちいちが、それを読む我々にズブズブと突き刺さってくるのです。それは安易な共感や、おざなりで無責任な批評を糾弾する一方で、何者かになりたいともがく者へのシンパシーであり、何者にもなれなかった者へのレクイエムであるようにも響きます。

 就活を扱った作品ながら、面接の場面が出てくるのは、最後の最後、たったの1回だけです。その慎ましやかなエピソードは、しかし、暗闇のトンネルの中で、もしかしたらそこから抜け出すことができるのではないかと期待させるもので、最初のページからひたすらに積み上げてきた何モノかによって、それはたしかに光明であるに違いないと、物語の主人公と読者の両方に信じさせるのです。見事だと言うしかありません。

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by ok-computer | 2019-01-28 11:56 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『考える葦』

 現代思想的、あるいは哲学的な知識と語彙がぼくの中に決定的に不足しているために、読みこなすのにとても時間がかかった。しかしそれは同時に、刺激的かつ幸せな時間だった。現代日本文学最大の知性が何に対して興味を持ち、どう考察しているのか。知らなかったことを知り得る上に、曖昧にただ感じていたに過ぎないことを言語化してもらうことによって、ある意味インスタントに自己更新できることは読書する喜びのひとつであるに違いない。

 一頃の平野作品に対する一般的なイメージは「難しい」「分からない」というものだったと思うし、それはストレートな感想だとも感じるが、その後に続く言葉は「つまらない」ではなく、「難しい」から、「分からない」からこそ「面白い」のだし、もっと平野作品を読みたく(理解したく)なり得るのだと個人的には考えている。これは現代アート全般を鑑賞する際にも言えることで、分からないことを分からないままにまずは楽しんで、そこから系統立てて調べたりして掘り下げてみればいいだろう。分からない(と思う)ことを楽しむのは、多様性を尊重するということに繋がるのだし、畢竟、世の中をより楽しむ結果にもなり得るだろう。反対に、「分かる」ことだけを恣意的に受け入れるような態度というのは、みすみす自身をガラパゴス化して、やがては自家薬籠的にやせ細っていくしかなくなるだろう。いや、それだけならまだしも、内向きに先鋭化してしまっているのが昨今の日本の状況だとも言える。

 67篇に渡るこの論考集において取り上げられるのは、三島由紀夫から始まり、大江健三郎、谷崎潤一郎、森鴎外、そしてフランス文学へと遡る文学論、ドラクロワやシャセリオーのような、19世紀ロマン主義の画家から、横尾忠則、トーマス・デマンド、広川泰士までの広範に及ぶ美術批評、ドイツ哲学からポストモダンを経て、現代に至る思想史、さらにはマイルス・デイヴィス、マルタ・アルゲリッチ、クリストファー・ノーラン・・・などなどで、その多岐に渡る博識とペダンチスムには付いていけない(プロレスを文化人類学的に分析する人は平野啓一郎くらいだろう!)こともしばしばだが、それはまた、沸々と知的好奇心を刺激して、もっと本を読まなくては!もっと美術館やギャラリーに行かなくては!と思わせられる。三島由紀夫について<古今東西のあらゆる文学作品に言及しては、読者にそれを「読みたい」気にさせる名人>だと評するが、これはそのまま、この本と平野氏自身にも当て嵌まる。

 この数ヶ月で実感したのは、「作家」というだけで有り難がられる時代はとうに終わったということだ。それは、芥川賞を当時史上最年少で穫った人であっても、映画化が決定する前に『マチネの終わりに』が20万部以上のヒットとなった当代随一の作家でも変わらない。さらに、知性的・理性的であろうとすればするだけ(何故か)世の反感を買ってしまうというこの時代において(知性的・理性的な)作家であることの困難を思う。しかしながら、この反知性の時代に対抗するのは、やはり知性を持ってしかないのだと考えざるを得ない(そうでないとするなら「理性」を捨てなくてはならない)。少なくとも、『決壊』で絶望を描いたこの作家はいまだに希望を捨ててはいないのだ。それが伺える「後書き」のパラグラフを紹介してこの感想文の終わりとしたい。

 <私たちは、今日、巨大な世界との対峙を余儀なくされている。なるほど、個々には葦の一本に過ぎまいが、しかし、決して孤立した葦ではない。古今東西に亘って、たくましく繁茂し続けている一群の葦であり、宇宙を包み込むのは、その有機的に結び合った思考である。>

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by ok-computer | 2019-01-13 17:47 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 この本のデザインは、単行本・文庫ともに、(裏ではなく)表紙にあらすじが明記されているという珍しい仕様になっている。しかも上巻に書かれているそれには、小説を300ページくらい読み進めて初めて出てくる、ある重要な事件について触れてしまっているのだ!

 平野氏は様々なメディアで、『ある男』や『マチネの終わりに』で序文を付けた理由として、自身は静かに小説を始めたいが、冒頭から盛り上がりを期待する現代の読者を納得させるために、19世紀のフランスの小説などで使われていた序文という手法を用いた、という趣旨のことを述べているが、『決壊』の表紙に記されたあらすじについても同じようなことが言えるのかもしれない。他方、これがある為に、最初のページに出てくる人物がその後どんな運命を辿ることになるのかが読者には予め分かってしまうことになるのだが、「何が」起こるのかではなく、「なぜ」起こってしまったのか?という点にこそフォーカスしてもらいたいという考えがあるのかもしれない。

 そう、この小説の最初の一文であり、第七章のタイトルでもある「なぜだろう?」(←実際には傍点有り)というフレーズは、最後まで読み終わった時、真っ先に僕の頭によぎった言葉であり、その疑問の多くがこの小説のメイン・キャラクターである、沢野崇という特異な人物像を通してもたらされたものであるのは間違いのないところであろう。この複雑怪奇な人物を創造したことが、作者がこの作品で成し得たひとつの到達点であることには異論はないものの、彼という存在は一体何だったのか?ということに関しては全く心許ない限りで、沢野崇が現代思想や人文科学などについて饒舌に語る内容に(恥ずかしながら)ついていけない部分があることも確かなのだが、それと平行して、彼の博識と饒舌は煙幕であって、タマネギを剝いていったら最後に何も残らないのと同じように、結局のところ(協調性には異常に富んではいるものの)虚無的な人物に過ぎないのでは?という想いを最後まで払拭することができなかった。

 作中、犯罪加害者の家族に対して、無関係の第三者が粘着質的な嫌がらせをする場面が具体的に描かれる一方で、(被害者家族である)沢野崇は<共感の暴力性>について以下のように語る。

「世間で言うところの被害者への共感っていうのは ― いいかい? ― それは少なくとも、この俺が感じていることとは何の関係もないんだよ!だけど、今の社会は、そうした共感による共同体という夢を、決して断念出来ないね。(中略)そういう社会はね、赦しの契機をどこまでも先延ばしにするだろうね。だって、赦さないことで、人間は同じ一つの感情を共有して、互いに結び合うことが出来るんだから!」

 また、須田という刑事の心の声として「沢野崇という人間は、なにか彼が、自分でも説明のしようもなく無性にムカムカする存在であり、この世界から完全に消えてなくなってしまえばいいと心の底から願っている、まさにそのもので、見ているだけでも腹が立ち、言葉を交わすだけでも虫酸が走るのだった」とまで書いている。

 本来、同情を寄せられ、共感を呼ぶはずの立場の人間である沢野崇をこれほどまでに徹底してそれらの感情を呼び覚まさない人物として造形しているのは、犯罪被害者と加害者両方の家族の厳しい現実を仮借なく描いているこの作品そのものに対して、読者が安易で短絡な共感や同情を寄せてはもらいたくないという、作者の鋼のような強い意志のようなものを感じてしまうのだ。

 もう一点、言及しておきたいのが、ドストエフスキーについて。『決壊』を書くにあたって、かのロシアの文豪を意識したことは平野氏も認めているところだが、なかでも『悪霊』との類似性は見逃せないだろう。19世紀ロシアの革命組織の内ゲバを題材として、<悪霊(のようなもの)>に取り憑かれた人々を描く『悪霊』と、2002年の日本を舞台に、<悪魔>と名乗る連続殺人犯と、その行動や声明文に触発された人々による同時多発テロとが描かれる『決壊』とは、その物語構造のみならず、スタヴローギンと沢野崇というそれぞれの主人公の、優秀なエリートであり、モテモテのイケメンであり、ニヒリスト(スタヴローギンは「彼は自分が何も信じていないということさえ信じていない」と評される)でもあるという人物設定についても(更に言えば、ふたりが最後に辿る運命も)共通している。平野啓一郎がドストエフスキー的な総合小説を目指したのはおそらく間違いないだろう。そしてまた、それにほとんど成功していると言っても差し支えないと思う。ただ、高度に情報化された現代の複雑な社会をそのまま反映した、とてつもない情報量と複雑さを兼ね備えた『決壊』(『悪霊』より複雑怪奇なのだ!)を、現代の読者である我々が(少なくとも僕自身は)簡単には読みこなすことができないこともまた、『決壊』をめぐる構造的な問題点であるとも言える。

 さらに、やや余談になるが記しておきたいことが一つ。『決壊』の中に出てくる、大きな鏡に映し出された自分の姿に間違って恋をして、以後、そこに熱心に通いつめ、求愛行動をし、巣作りまで始めてしまったというペリカン「カッタくん」のエピソードは本当にあった話。

 『決壊』では、これに関してそれ以上は追及されてはいないが、注目すべきは、近作『ある男』において、ナルキッソスの水仙の花への<変身>から、弁護士の城戸が“ある男”Xの自己愛の欲求へと思い至ることになるくだりへと見事に繋がっている点。平野啓一郎という人が、その作品を個々にはもちろん、全的に捉えられることも意識し、またそれを可能にしている作家であることを示す証左ではないかと思う。

 さて、そろそろこの駄(感想)文の結びを探らなければならない。僕は『決壊』のラストシーンに呆然としてしまったクチである。そして、先述のように、「なぜだろう?」と問い直さずにはいられなかった。『決壊』は作家のテクニックによって屁理屈を美文で綴ったような作品では決して無い。『決壊』は体感する(できる)小説である。<決して赦されない罪>を、読み進めるのが苦しくなるほどに、スーパーリアリズム的に描いた作品である。矢鱈と身体の動きに関する描写が多用されているのもそのためだろう。それと同時に、人間の内面世界に深く沈潜し、分人主義へと到達する一歩手前の、多人格を同価値・並列に扱う手法が試みられ、それゆえに沢野崇の複雑怪奇なキャラクターはそのまま作品の奥行き、深み、複雑さへと繋がってゆく。現代思想、現代アート、ネット・リテラシー、事件をめぐる報道やメディアの在り方、死刑制度、犯罪被害者と加害者家族の問題、いじめ問題、<幸福>というファシズムなどなど、社会が抱えるあらゆるトピックを呑み込みながら、立ち現れてくるのは、『日蝕』の巨人のような、現代日本の肖像とでも呼ぶべき、小説というレンズを通した巨大な実像(あるいは虚像なのか?)である。その圧倒的な体験の前で成すべきことは、中途半端な理解のまま140文字以内でつぶやくことではおそらくないはずだ。読むこと、読み返すこと。詰まるところ、読者である僕らにできるのはそれだけだし、まさにそれこそが、作品ひいてはその作者に、会うよりもなお近づくことができる最良の方法でもあるのだ。

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by ok-computer | 2018-12-26 19:28 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『ある男』(2回目)

 平野啓一郎『ある男』を読了(2回目)。

 最初にこの作品を(「文學界」2018年6月号で)手に取った時には、まだ平野氏の作品は『マチネの終わりに』と短編集『透明な迷宮』しか読んだことがなかった。しかし、今回再読するまでの間に、それらに加えて更に5作品を読み進めたこともあって、複数の作品に通底するテーマや、彼が提唱している分人主義(「個人」に対する概念で、本当の自分などというものは存在せず、対人相手ごとにその関係性の中で生まれる「分人」の集合体が「自分」であり、人の個性は、その「分人」の構成比率によって決定される、というような考え方)についてもある程度理解が及ぶようになってきた。そうすると、半年を置かずに読んでいるはずの作品の細部に、決して忘れてしまっていたということ(だけ)ではなく、違った角度から光が差し込んで、最初読んだときには深く考えもせず読み飛ばしていたような一行に、その意味するところの奥行きを感じ取れるようになったことは、ある意味で初見時よりも新鮮な発見に満ちた読書体験となり得たし、そもそも作品がそのように(=何度読んでも耐えられるように)精巧に作られていることに思い至るにあたって、深く感じ入ることとなった。

 とは言え、初めて『ある男』を読んだときも間違いなく良作であることは確信していたものの、『マチネの終わりに』と較べると、分量的に少なく、物語の舞台(世界を股にかけて描かれる『マチネの終わりに』に較べ、『ある男』は横浜・東京・名古屋・宮﨑と国内の移動に留まっている)や構造(物語を織り成すレイヤーの厚み)においてもスケールダウンした印象があり、それがやや物足りないと感じていた。しかし、今こう書いてみて自分でもよく分かったが、それは同じ理由で『羊をめぐる冒険』が『1Q84』よりも劣ると(愚かにも)言ってしまうような、表面的で浅い読み方しか出来ていなかったことの裏返しだったのだと痛感する。

 先述の「複数の作品に通底するテーマ」について言えば、とくに近作では、生き延びるために「生き直す」、愛を持続させるために「愛し直す」ということが平野文学の重要なテーマとなっていることは論を俟たないだろう。『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』といった作品の中でも、それら二項目が背反することなく、他の様々なテーマやエピソードと並列して描かれている。そう、今挙げた作品群においては、「生き直す」「愛し直す」というテーマはもちろん重要ではあるが、縦軸と横軸が複雑に絡まってゆく、現代の総合小説とでも言うべき、その多層的な物語構造の中では、何よりも際立っているとは言い切れない部分があった。

 しかしながら、『ある男』においては、多層的なテーマ(死刑制度、ヘイトスピーチ、犯罪被害者家族と加害者家族の問題など)は維持しながらも、作品を構成するレイヤーはやや薄くなり(初読では物足りなく思えた部分)、代わりにこれまでにも追求されてきた「生き直す」「愛し直す」というテーマが抽出されて結晶化したような趣と美しさとがある。

 繰り返すことになるが、これまでにもこれら二つのテーマは平野氏の小説の中で様々なかたちで追求されてきた。『ある男』の主人公である、城戸という弁護士が思い煩う、愛が冷めたという訳ではなく、長年連れ添ってきた夫婦の必然でもある倦怠についても、既に『ドーン』において(もう少し若いカップルで)検証・考察されていたが、さらに経年して、中年世代のアイデンティティ・クライシスという新たなテーマを加えながら変奏・再考されている。

 『ドーン』の火星有人探査プロジェクトやアメリカ大統領選、『かたちだけの愛』の芸能界やプロダクトデザインの世界、『空白を満たしなさい』の<よみがえり>現象といった、華やかであったり、突飛であったりした舞台背景はもはや必要なく、日本国内の平均的な都市や辺鄙な田舎町に暮らす市井の人々のありきたりな生活の中の、決してありきたりではない孤独や哀しみ、逃れることのできない出自などに、透徹した筆致でありながらも優しい眼差しをもって寄り添ってゆく。「愛」や「思いやり」といった、扱い方によっては鼻白んでしまいそうなテーマに果敢に挑み、それを描き切ったところにこそ、作者の成熟を見る思いがする(そして、それを一読したときには分からなかった己の不明を恥じることになる)。

 二度目の読書が終わって、再び『ある男』の序文に戻ってみると、「城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じでいた。(中略)そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。」という一文に(改めて)出会わすことになる。他人を通して自分を知ることこそは、まさに文学がこれまでずっと成してきたことであり、今もなお小説が必要とされる理由でもある。そして、素晴らしいアート作品に触れたときに感じる、いつまでも消えずにいてほしいと願う余韻の中で、目を瞠る思いで、作者である平野啓一郎氏の背中を見つめ直すことになる。ある偉大な小説家と同時代を生きることの幸福を噛み締めながら。

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by ok-computer | 2018-12-08 19:46 | | Trackback | Comments(0)

朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

 朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』を読了。

 テレビのトークバラエティで、現代における文学の立ち位置や他人の作品に対する氏の鋭い考察を聞いて、「これだけの分析力を持った人であれば、作品自体も面白いかも?」と思ったのが本書を手に取ることになったきっかけ。

 結論から言うとこれはなかなか面白かった。文体や物語設定はエンタメ小説的だが、登場人物の内面描写の鋭さや作品構成の面白さは純文学のそれで、両方のいいとこ取りと言っていいような小説であると感じた。もっとも、この美点はそのままこの作品の欠点だと言い換えることも出来るというか、つまりは、どっちつかずの中途半端な作品だと言えなくもないのだが、ぼくにとってそれは瑣末なことであって、美点のほうが遥かに大きく感じられた。

 この小説のユニークな点のひとつは、タイトルになっている「桐島くん」は会話やモノローグの中で言及されるのみで、物語に登場することが無いところ。この手法はどこか映画的で、同じくタイトルになっているにも関わらず、最後まで顔が映らず、ずっと死んだまま(!)のヒッチコックの『ハリーの災難』を思い出した。登場人物のひとりが映画部の部長で、彼の目を通して描かれる章では、「『メゾン・ド・ヒミコ』もよかったし、やっぱ犬童一心最高!」「レンズを通して見る世界は、普段は見えない感情に満ちていてとてつもなく美しい。」というようなシネフィル的な記述に満ちているので、意識している部分もあるのかもしれない。

 また、平野啓一郎的に分析してみるならば、「桐島くん」の周囲の人間の、「桐島くん」との関係性の中で生じたそれぞれの<分人>が全編に渡って描かれている、と看做すことも出来そうだ。その複数の、桐島くんとの<分人>が小説的に集積されているために、本人不在であっても、小説が終わった後にはちゃんと「桐島くん」の人となりみたいなものが立ち現れてくる仕掛けになっている。

 その文体は軽いを超えて、最初はチャラいくらいに感じられたのだが、読み進めていくと、そこには計算があり、ちゃんとコントロールも効いていることが分かってくる。「宮部実果」の章のクライマックスでは、もっと泣けるように持っていくことも可能だったはずだが、おそらく全体のバランスを考えて、抑制をはたらかせている(つまり、手紙の内容を明かさない)ところなど、この作品を世に出したときに朝井氏がまだ19歳だったことを思えば、上手過ぎて小憎たらしくなってしまうほどだ。

 子どもでもなければ大人でもない、16でもなければ18でもない、17歳の高校生たちの揺らぎみたいなものが、この小説では実にヴィヴィッドに切り取られている。朝井リョウが19歳だったことを、作品の技術的なエクスキューズにする必要はまったくと言っていいほど無い。それよりも、<17才の記憶>が薄れてしまう前に、ノスタルジーという甘い罠に塗り替えられてしまう前に、作者がそれを小説として真空パックしてみせたことに大きな意義と、かけがえのない魅力を感じる。

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by ok-computer | 2018-11-30 08:38 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『日蝕』

 平野啓一郎『日蝕』の感想を『日蝕』風の文体で書いてみる。

 これより私は、平野啓一郎『日蝕』の個人的な感想を録そうと思っている。人はこの頗(すこぶ)る難解な書に対して、径(ただ)ちに嫌悪を挿むであろう。私はこれを咎めるものではないが、冀(こいねがわくは)、この書を単行本よりもルビの多い文庫本で読むことを進言したいと思う。然(さ)すれば、辞書を引く手間も幾許か省かれるであろう。

 抑(そもそも)、初期の平野啓一郎が三島由紀夫の影響を受けていることには論を須(ま)たない。『日蝕』は、『金閣寺』の仏教(日本)をキリスト教(中世フランス)に、金閣寺への放火を魔女狩りに置き換えて、脱構築、あるいは記号論的分析を試みたと看做すことも出来るのではあるまいか。更に云えば、三島が『金閣寺』を著すにあたって参照したと謂われる森鴎外の姿も其処からは透けて見えてくるのである。

 その晦渋な文体は、物語世界に浸らんとする読者に常に覚醒することを求め、その衒学性が為に中途で停滞せんこと能わぬのである。慥(たし)かにこの文体故にこそ『日蝕』と云う書は際立っている。然(しか)し乍(なが)ら、斯様な面ばかりに囚われることは太陽を裸眼で見遣れば盲になるが如く、本質へと迫る視点が失われるとも思うのである。

 本書の最高潮たる、日蝕の蒼穹(そら)の下で処される焚刑の場面の迫力は筆舌に尽くし難いが、其処に先立つ、神学僧ニコラが洞内で石に縛(いまし)められた両性具有者(アンドロギュノス)と初めて出会(でくわ)す際の、この世界の裡なる別の層が裏返って露になったが如き、美とエロチシズムとの名状し難い一体性の顕現にこそ本書の真髄を見る想いがするのである。

 『日蝕』を十全に理解したかと問われれば、否、と答えるしか無い。しかし、徒(いたずら)にこう思ってみるのである。
 蓋(けだ)し、アンドロギュノスは金閣寺の夢を見たのではないか、と。

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by ok-computer | 2018-11-23 08:09 | | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『かたちだけの愛』

 平野啓一郎については、毎回ガラっと変わる物語設定や、初期とその後との文体の変化などがよく指摘されるが、何冊か読み進めていけば、そういった表面上の差異を超えて、一貫したテーマが複数の作品の中に通奏低音のように流れていることに気付かされる。なかでも「生き直す」と「愛し直す」という概念は、平野作品を読み解く上で重要なキーワードになっているように思える。

 この『かたちだけの愛』では、叶世久美子という、事故で片足を失った女優(タレント?)が諦めかけた人生に再び光明を見出していく過程と、相良郁哉という、離婚を経験し愛を見失ったプロダクト・デザイナーの男が(相手を変えてではあるが)人を愛するという感情(概念)を取り戻してゆく姿とが、同時並行的、あるいは混ざり合う形で、実にきめ細やかに描かれていく。

 そのハイライトは何と言ってもラヴェルのピアノ協奏曲第二楽章をバックに主人公の二人の手がわずかに触れ合うシーン。愛の始まりをこれほど格調高く、かつ美しく表現した小説を他に知らない。『マチネの終わりに』でもそうだったが、音楽を小説的に表現していく上での、緻密な描写とその言葉の選択の巧みさについてもまた比類がないくらいに素晴らしい。(単行本では)143ページ後半から144ページにかけての、「二人の関係の余白を、音楽がその透明な糸でやさしく縫い合わせていく」一連のシークエンスはまさに絶美と言っていい。(ちなみにこの場面で流れるのは、クリスティアン・ツィメルマンのピアノとピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏で、ぼくも愛聴している盤だったので嬉しかった)

 主人公たちの職業を反映して、専門用語やブランド名/アーティスト名などの固有名詞が続出し、村上龍のある種の作品のように記号論的な趣もあるにはあるが、「断端」や「幻痛」といったあまり聞き馴れない言葉が、小説の中で繰り返し使われていく内に、展開される物語のテーマと密接に絡み合って、単に名称や症例を顕す以上の隠喩的な意味合いを帯びてくる(帯びさせてゆく)のを読んでいると、(平野氏についてよく言われる)「知識のひけらかし」などという誹りはまるで見当違いであることを確信させるとともに、言葉の力を信じ、その言葉をクリエイティブかつ自由に操ることのできる小説家のみが辿り着くことのできる深遠を垣間見させてくれる。

 入り組んだ物語、張り巡らされた伏線、それぞれが独立的な複数のテーマの同時進行(ポリフォニー)、さらには、前述のラヴェルのコンチェルトや、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』と『刺青』、そしてエイミー・マリンズ(アメリカの義足のアスリート/女優)への言及など、一見作家の興味の赴くままに並べられたかのような諸要素が、小説が後半に向かうに連れてパズルのピースのように有機的かつ意外な驚きを伴って繋ぎ合わされてゆき、最後には一幅の大きな絵が完成する。それは(登場人物の台詞を借りれば)「目覚めたまま見る夢」であり「この瞬間が、永遠に続いて欲しいと思うような夢」でもある。そして、作者である平野啓一郎は、その<愛の夢>を小説という形で永遠に定着させてみせたのだ。
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by ok-computer | 2018-11-12 18:00 | | Trackback | Comments(0)