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音楽の海岸

カテゴリ:文学・本( 50 )

最近読んだ本(『ひよこ太陽』『金閣寺』『服従』ほか)

柳美里『JR上野駅公園口』

死者の視点によって、時空間を行き来しながら、点描画的、或は被写界深度の浅い写真を集積したような、独特の幻想的な作風。「在るひとに、無いひとの気持ちは解らない」ことの表れか、主人公の内面描写は比較的浅め。幸福な結末を期待した訳ではないが、やはり切ない。

田中慎弥『ひよこ太陽』

田中さんの作品は初読み。イメージとは異なり、此処には性も暴力も無いが、その予兆の孕みのようなものは慥かに感じられて、なるほどこれが現代の無頼というものなのかもしれない。芥川賞受賞会見は個人的には逆効果だったが、この本で一気に挽回。他の作品も読んでみたくなった。

三島由紀夫『金閣寺』

初めて読んだ高校時代には、士官の前で女が茶の中へ白い乳を迸らせる場面で、無理!と投げ出したのだが、今読み返してみると、一つひとつの要素は異様であったとしても、それらエピソードの有機的な積み重ねによるクライマックスへと至る、その物語運びの巧みなことに驚かされた。平野啓一郎は「『金閣寺』と出会わなかったら小説家になっていません」と語っているが、僕は逆に、平野作品に出会さなければ『金閣寺』を最後まで読み終えることは出来なかっただろう。投げ出したくなる度に、平野さんが僕を鼓舞し、励ましてくれたような気がする。

ミシェル・ウエルベック『服従』

ユイスマンス研究を専門とし、女子学生と気ままな関係を弄ぶ飄々とした大学教授を主人公に、極右かイスラームか、という究極の選択の末に、イスラーム政権が成立した2022年という超近未来のフランスを描く。ミイラ取りが何とやらで、ユイスマンスの人生を奇妙になぞってゆくかのようで、結局のところ、ユイスマンスは「改宗」だが、この主人公は「服従」であるということか。途中に描かれるテロが最後まで読んでも動機も犯人も判然としないのが不気味だ。

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by ok-computer | 2019-08-11 09:38 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

 わが『小板橋』論  

 明治から昭和の時代にかけて活躍した歌人・石上露子(大阪府富田林市出身)の代表作として名高い『小板橋』において、繰り返される単語が三つある。それは「小板橋」「夕」、そして「うばら」である。決して長くはないその詩歌の中で、繰り返されるこれらの単語の中には、作者が強調したいイメージと何らかの伝えたいメッセージとが含まれていると考えるのが自然なことだろう。勿論、作者がどのように考えていたかは今となっては定かではない。しかし、出来うる限り作者の想いに寄り添って、どのような意図を持って書かれたのか想像してみることは、読書をする際の大きな楽しみであるには違いない。この稿においては、これら三つの言葉を足掛かりにして『小板橋』を自分なりに読み解いてゆきたいと思う。

 ゆきずりのわが小板橋
 しらしらとひと枝のうばら
 いづこより流れか寄りし
 君まつと踏みし夕に
 いひしらず沁みて匂ひき

 今はとて思ひ痛みて
 君が名も夢も捨てむと
 嘆きつつ夕渡れば
 あゝうばらあともとどめず
 小板橋ひとりゆらめく


①「小板橋」について

 この明星派女流歌人の絶唱とも言われる詩歌のタイトルに冠された橋は残念ながら現存しない。富田林寺内町の南側、大阪府富田林市を南北に流れる大和川水系の一級河川「石川」沿いに広がる竹林の中に、その跡を伝える案内標があるばかりである。付近には今もなお河岸段丘上の田畑を潤す水路があり、その何処かに小板橋が架かっていたと考えられている。

 日本でも近代化が始まっていた明治時代の建造物の在った場所が判然としないというのは少し不思議な気もするが、当時から「小板橋」という名、あるいはその存在さえも、決して多くの人が知るところではなかったのかもしれない。ここで注目しておきたいのは、「ゆきずりのわが小板橋」という部分において、わざわざ「わが」小板橋と書いている点で、わたしの、と強調することにより、橋に個人的な意味合いを付与し、初恋の人に対する露子のかなわぬ想いを託すメタファーとして、その知られざる慎ましやかな橋の名が、詩歌の中で繰り返されるばかりでなく、あまつさえタイトルにまで採られたのである。

 さらにもう一歩「誤読力」を押し進めてみるならば、なるほど水路に小さな橋のようなものは架かっていたのかもしれないが、それを「小板橋」と呼んでいたのは露子とその恋人だけで、それは二人の間だけに通じる隠語のようなものだったのではないかとも勘繰ってみたくなる。無論これは極端な推測であることは承知しているが、石上露子が明星派の詩人であったことを鑑みれば、このようなロマンティックな解釈もアリではないかと思う。


②「夕(ゆうべ)」について

 『小板橋』の二つのパラグラフの間には時間的な隔たりがあり、その間に二人を引き裂く決定的な出来事があったのだと読むことができる。そんな悲しい出来事を間に挟んだ二日の情景が詠われているわけだが、いずれもが夕刻であるというのは、封建的な家父長制度の暮らしの中で、露子が家事から解放されて、河原にでも出てくることのできる時間が夕方しかなかったということが想像できる。これについては露子の他の短歌を見れば、さらに納得されるのではないか。

 月見草
 ふたたびおなじ
 夕暮の
 河原に咲けど
 誰に摘むべき

 これは『小板橋』の後半部分に近い時期、つまり別れの後に詠われたものであろう。「ふたたびおなじ」夕暮れと河原に咲く月見草、しかし、そこにはただ貴方だけがいない。

 そしてまた、詩歌や短歌といった、限られたフォルムの中で、詠み手の心象風景を手早く読者に理解してもらう為に、「夕」という共有し易い言葉が用いられている側面もあるのだろう。叶うことのなかった初恋と強制された結婚、現在ほど長寿社会ではなかった当時、それは日の盛りを思わせる青春の終わりであり、得体の知れない夜を迎える前の、人生の夕暮れ時だと感ぜられたのかもしれない。


③「うばら」について

 「うばら」とは「野ばら」のことである。「野ばら」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのはゲーテの詩であった。シューベルトの歌曲でも有名なこの詩は、それが故に、曲の一番の部分(詩の最初のパラグラフ)だけを聴いて(読んで)、少年が野に咲くバラを見つけるという、無邪気な「子どもの情景」を詠ったに過ぎないと考える人もいるかもしれないが、以降を読むと、バラというのが若い女性のメタファーであり、かつて彼女と何らかの関係があったことが示唆されているのを感じ取るのはそれほど難しいことではない。実際のところ、「少年」はゲーテ自身を、「野ばら」はフリーデリーケという女性を指しており、彼らの恋愛体験に基づいて詩が生まれたことは後年の研究から判明している。

 露子がここで「うばら」と詠むとき、そこにゲーテの「野ばら」を読み替えて、若き日の失われた恋の象徴として、それを重ね合わせたと見るのは穿ちすぎであろうか。近藤朔風が「野ばら」を日本語に翻訳したものを発表したのは1909年であり、露子が『小板橋』を「明星」誌上で発表したのは1907年なので、近藤訳を参照したのではないのは事実だが、ゲーテの詩が既に日本に入ってきていたこともまた然りであり(Wikipedia:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「日本における受容」の項目参照)、露子が海外文学に造詣が深かったことも聞き及んでいる。

 アリストテレスは『詩学』の中で、詩と歴史を比較して、歴史が起こった事実を語るゆえに個別的であるのに対して、詩はいかにも起こりそうなこと=真実らしいことを語るがゆえに普遍性をもつ、とした。「いづこより流れか寄りし」の「いづこ」とはゲーテの住むドイツであり、遠くヨーロッパの異国から時空間を超えて流れ着いた野ばらが、その悲恋の象徴としてふたたび匂い立つことは(詩の世界では)いかにも起こりそうではないだろうか。そして、ゲーテと石上露子が「野ばら」を介してひとつに結ばれるのは、事実よりもなお真実らしいことなのではあるまいか。

 いずれにしろ、恋人とともに「あとをとどめず」消えてしまった「うばら」の行方を追うことは尽きない興味である。


・最後に

 石上露子が残した作品は決して多くはない。ましてや、その作品の資料については輪をかけて僅かなものであろう。それは至極残念なことではあるが、作品を後世の人が自由に解釈できる「余白」をたっぷりと残してくれたのだと前向きに捉えることもできる。勿論そう捉えるだけでなく、その「余白」を満たすためにも、我々は作品を自分なりに解釈し、それを何らかの形で記してゆくことが重要であるのは言うまでもない。事実はひとつかもしれないが、真実は人の数だけあり得る。露子の作品を読み、それぞれの解釈について語り合い、一人ひとりの『「わが」石上露子』が集積されることによって、余白が満たされ、新たな「石上露子」像が立ち現れてくることを願って止まない。

Wikipedia「石上露子」のページ


参考文献
・平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践 』(PHP新書)
・『富田林百景+「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!』より「小板橋を訪ねて」
・『野ばらプロジェクト』より「詩 | ゲーテ21歳、恋をする。」(https://nobara-project.com/gedicht/)
・日本大百科全書(小学館)より「真実らしさ(佐々木健一)」

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寺内町の南側に広がる竹林の中に立てられた小板橋跡の案内標。
ただし、これはオフィシャルなものではないそうです。
また、非常にワイルドな場所に設置されているので、撮影するときには望遠レンズが必要。

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この付近の水路の何処かに「小板橋」が架かっていたと考えられています。これが現代の小板橋なのか!?

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或は此処か?
跡を留めぬ小板橋の在処を自分なりに探してみるのも一興。

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石上露子が暮らした富田林寺内町にある「本町公園」には、石上露子記念碑が建ち、地域の人々の憩いの場となっています。

by ok-computer | 2019-07-12 19:01 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』

 平野啓一郎が、公の場で何度も繰り返し発言していることに、自身が好きな本の条件として「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」というものがあるが、『「カッコいい」とは何か』について云えば、本篇が始まる前の、<はじめに>の部分だけでも既にその条件はクリアされている。日本で「カッコいい」という言葉が普及したのは、実はようやく1960年代のことであるなんて全く知らなかった。いや、そもそも「恰好が良い」と「カッコいい」とは意味合いが違うなんて考えもしなかった。さらには、「カッコいい」という言葉に「表面性」と「内実」との二元構造があるなんて思いも寄らなかった。最初のたった数ページで目からウロコを落としまくり、視界と思考をクリアにした上で、平野氏曰く「長い旅のような本」へと読者を誘ってゆくのだ。

<はじめ、平野さんが「カッコいい」を書くと聞いて「カッコいい」という言葉がピンとこなかった方も実はいらっしゃるのではないでしょうか。/私もその一人。「カッコいい」という言葉が自分の語彙になく、聞いてすぐに、それだ!とはなりませんでした。>

 先日配信された、平野啓一郎公式メールレターの中で、スタッフのささきさんが書いておられたこの一節を読んで、言い出せなかったけれど、実は自分もそう思ってた!と首肯した平野ファンも多かったのではないだろうか。しかしながら(或は当然のことながら)、そんな憂慮は杞憂だった。『「カッコいい」とは何か』は、ひとつのキーワード(=概念)から古今東西の人物・作品・事象・現象を読み解き、論考を深めてゆく、幻惑的なまでに衒学的な、ペダンチックを突き抜けてロマンティックな、まさに平野啓一郎の真骨頂とも云える一冊になっている。

 膨大な知識と情報量がストーリーラインと密接な関係性を持ちながら、うねりのような流れを生み出していくのは、『決壊』『ドーン』『マチネの終わりに』などで顕著な平野作品の特徴(のひとつ)であり、本書でもまた、文学・音楽・絵画・映画・ファッション・格闘技・政治などなど、多岐に渡るトピックが採り上げられるが、小説ではないので明確なストーリーラインというものはなく、その代わりに「カッコいい」という概念が、それらを縫い合わせてゆく糸のように(或は、曲芸の綱のように)なって論考が進められてゆく。そして、文学から格闘技にまで、その話題のいちいちが著者の好みのものであるということにも注目したい(それは、心地良い「分人」を生きる割合を多くする作家的試みなのかもしれない)。

 なかでも、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』と第5章『表面的か、実質的か』における、ファッション、そしてモードへの言及部分が個人的には興味深かった。この二つの章において、平野氏にしては珍しく(?)「普通」という言葉が頻発される。<「カッコいい」が普通以上であるのに対して、「カッコ悪い」は普通以下である。> <「カッコ悪い」人間は、自分たちの普通という感覚から悪い意味で逸脱している。> <それ(=「カッコ悪い」)は、普通とされる規範からの逸脱を意味しており、その乖離は、個人の羞恥心に於いても、社会の秩序観に於いても、解消されるべきであると考えられている。>(※原文では「普通」のいずれにも傍点が付されている)

 こう書くとバカみたいに思われるかもしれないが、個人的にはずっと、「平野啓一郎って、作家なのに何でこんな何時も<カッコいい>服装をしているのだろう?」と感じていた。作品は文句なく素晴らしいのだから、何も格好つけなくてもいいのではないか、いや寧ろ、ファッショナブルな外見は、作家としての内面(=作品)を誤解させる可能性だって孕んでいるのではないのか、とさえ考えていた。何か崇高なものをいきなり地べたに引き摺り下ろすような話をするようで恐縮だが、この第4章から第5章にかけて語られるのは、「平野啓一郎はなぜいつも<カッコいい>服装をしているのか?」という問いに対する答えである・・・まあ、これは冗談ではあるが、幾許かはマジである。平野啓一郎は、マイルス・デイヴィス、ジミー・ペイジ、ドラクロワ、アルチュール・ランボーのような、かつて(今も)憧れ共感した「カッコいい」存在に、自身も本気でなりたいと思っているのかもしれない(ジミー・ペイジがエルヴィスに憧れたように)。それは読者にとって平野氏を遠くて近い存在に感じさせるであろうし、「カッコいい」の、表層と実質の二元的な構造については本書で何度も繰り返されているが、換言すれば、(現代社会においては)実質(本質)だけではまだ足りない、ということも指摘できるのではないだろうか。

 閑話休題。平野ファンとしては、やはり本書がその小説作品とどのようにリンクしているのかは気になるところだろう。しかし、その前に本書の立ち位置みたいなものを確認しておこう。平野氏曰く、<本書は、小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本>だったとのことで、そのことからも、この新書が小説とは別に構想されてきたことが分かる。その意味では、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』とは、そのタイトルの連続性にも関わらず、少し異なったポジションにあることには留意しておきたい。つまり、『私とは何か』は、『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』と非常に密接な関係性にあり、極論すれば、それらの小説を注意深く読んでいれば、その内容はある程度事前に察知できるものである。そこに加えて平野氏自身の体験談や、現実においての汎用例などを交えて、分かりやすく解説したのが『私とは何か』であったならば、『「カッコいい」とは何か』には、前述のささき氏の指摘にもあるように、平野作品を熟読しているような熱心なファンであっても、その小説との連続性が見えてこない、まさに「ピンとこない」ような唐突感があるのかもしれない。だが、ここは重ねて言及しておきたいが、(目からウロコの)<はじめに>を経て、本篇を読み始めてみると、これまでの作品で平野氏が採り上げてきたテーマが、此処でも形を変えて追求されていることはすぐに承知されるだろう。曰く、<「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。>とあるように、「アイデンティティ」を巡る問題は、やはり本書でも繰り返され、変奏されるなかで、議論が深められてゆくのである。

 そして、『私とは何か』が、『ドーン』や『空白を満たしなさい』などを<捕捉>するものであったとするなら、『「カッコいい」とは何か』は、平野氏がその著作を通じて考察してきたなかで、(少なくともこれまでの)小説では充分に論考・展開できなかったことを、「カッコいい」という、ありふれているが故に、これまで誰からも真剣に分析されてこなかった概念を通じて、その作品群に留まらず、「民主主義と資本主義とが組み合わされた世界」の「人倫の空白」を<補完>する書物であると看做すことも出来るだろう。

<「カッコいい」には時間性があり、過去・現在・未来の中で、その価値を相対的に変化させてゆく。>

 上記は、第4章『「カッコ悪い」ことの不安』の一節だが、この箇所を読んで『マチネの終わりに』の<未来は常に過去を変えている>という、未来と過去の逆説的な関係性についての台詞を想起する人は多いのではないだろうか。過去のカッコ悪い自分や恥ずかしい自分を無かったことはできないが、その後の生き方で変えていくことは出来る、というのはポジティブで魅力的な考え方だが、歴史修正主義のように政治的に悪用される恐れもあるだろう。本書の第9章『それは「男の美学」なのか?』では、「カッコいい」の政治的利用(=悪用)についても批判的に分析されていることは特に記しておきたい。

<ヒップは小さい円(サークル)から始まる。そのメンバーたちは、より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく。それぞれの円は、可能な限りのものを取り込んでいく。外側の円が追いつく頃には、内側の円は新たなコードを発明しなければならない。>(第6章『アトランティック・クロッシング!』より、ジョン・リーランド『ヒップ—アメリカにおけるかっこよさの系譜学』の引用) 

 本書には、これまで平野氏がその著作の中で書いてきたこと(論考してきたこと)、或はメディアやSNSを通じて発言してきたことなどが随所に見受けられる。重要なのは、それらが羅列されることではなく、「カッコいい」とは何か、を巡る考察において、過去から現在にまで至る、(文学・音楽・アート・ファッション・格闘技・政治などの)あらゆる人物・事物・事象に繋げてゆく、いわば「接続力」とでも言うべきもので、「可能な限りのものを取り込んで」ゆき、「より独創的な表現、より極端な表現を生み出すようお互いを刺激し合い、やがて同心円を描きながら外へと影響を与えていく」ことである。そこには、(平野氏の)知性によって可知的な領域が拡大されるような快感があり、それが本書で何度も触れられている「経験する自己」というものを、読者にヴィヴィッドに感じさせてくれるに違いない。そしてまた、それは冒頭に記した「読む前と読んだあとでその人の何かが変わっている」ということにも繋がっていく。

 一冊の本をこれほど(文字通り)貪るように読んだという体験は本当に久しぶりのことだった。「長い旅のような」この本を通じて「経験した自己」を「物語る自己」によって言語化することは、(その主旨から言っても)ごく自然な営みであろうし、おそらく本書を読んだ者であれば誰でも、自分が何処に「しびれた」のか、その体感を語りたくなり、おそらくは、それを誰かと共有したくもなるだろう。この拙い文章もその一つの試みであり、今後ブログやSNSを通じて、多数の『「カッコいい」とは何か』論が出てくるに違いないが、本篇結びの直前にあるように、<「カッコいい」には、人間にポジティヴな活動を促す大きな力がある。人と人とを結びつけ、新しい価値を創造し、社会を更新する>のであり、喜ばしいことに、われわれもまた、「カッコいい」とは何かを巡る、この「長い旅」に、マージナルな場所から参加することができるのだ。

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by ok-computer | 2019-07-09 17:31 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

 本書第3部における、フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』を取り上げた箇所のなかで、平野氏は議論の組み立て方として<相手の意見→理解→しかし、否定→自説の展開>という形式が効果的であることを説いている。これをこの本自体に当て嵌めてみると、相手の意見=「速読」、自説=「スロー・リーディング」という図式となる。

 せっかくなので、この形式に沿って『本の読み方』をスロー・リーディングしてみよう。まず著者は序文で「本書の立場は、徹底してアンチ速読である」ことを表明しており、その方針に基づいて本書の論考は進められてゆく。しかしながら、これもまた序文で、平野氏自身も「速読」に憧れていた一人だったことを告白しており、決してアタマごなしに速読批判しているわけではないこと(=一定の「理解」はあること)は読み取ることができるだろう。

 続いて「否定」がやって来る。アンチ『本の読み方』の向きが批判するのがこの箇所で、フォトリーディングの件など、アンチ速読の論旨がいささか強引過ぎるというのが主な意見だが、平野啓一郎ともあろう人が、筆が滑ったというのだろうか? 実際のところは分からないが、平野氏が言うところの「誤読力」を活用してみよう。ヒントはやはりこの本の中にある。「違和感を覚えた箇所こそは目のつけどころだ。(中略)作者が、いささかムリをしてでもねじ込みたかった重要な意味を持っていると考えるべきだろう(古今のテクストを読む 三島由紀夫『金閣寺』の章より)」。「いささかムリをしてでも」著者が伝えたかったのは、どうしても読み落としが出てしまう速読のデメリットであり、ひいては自説、つまりスロー・リーディングの効能である。

 余談だが、(おそらく)速読の効能を信じるであろう人が批判する、本書の速読批判の部分について、速読技術の観点から言えば、ここで一々立ち止まらず、それなら読み飛ばしてもいいと思うのだが、如何なものだろうか?(当然ながら、スロー・リーディング的には読み飛ばしてはならないし、なぜ著者が速読に否定的なのかは自ずと理解されるであろう)

 いずれにしろ、速読技術を論破することはこの本の主目的ではない。「一冊の本を、価値あるものにする」ために、どう読んだらいいのか?ということがテーマであり、帰納的に導き出されたのが、自説=「スロー・リーディング」であり、「リリーディング(読み直し)」である。若い頃はお金が無いので、同じ本やCDを何度も読んだり聴いたりして、おかげでそれらの細部まで今でもはっきりと覚えている、ということが書かれているが、これなどは多くの人が共感できること、あるいは経験則として実感していることであり、速読批判に批判的だった人でもストンと腑に落ちるのではないだろうか。

 ところで、この本書が新書(現在は文庫化もされている)だからといって、平野ファンとしては、単なる読書指南書として読むのはあまりに勿体無いし、当然それだけに収まらない内容が詰まっている。『私とは何か 「個人」から「分人」へ』が『ドーン』や『空白を満たしなさい』などと密接な関係にあるように、『本の読み方』にも平野作品を読み解くヒントが彼方此方に散見されるのだが、ここでは『金閣寺』を取り上げた箇所について記しておきたい。

 <「思想の対決」としての会話>という章のなかで、ドストエフスキーの小説の登場人物がそれぞれに完全に独立した思想を持ち、彼らが対話を通じて対決する「ポリフォニー小説」であることを紹介し、ドストエフスキー(とトーマス・マン)の影響下で書かれた『金閣寺』にも幾分その傾向があることを指摘し、後に出てくる「他作品との比較」の重要性とも結びつけているが、これは平野氏自身の『決壊』にも通じることであり、またあの作品が、ドストエフスキー→トーマス・マン→三島、という系譜に連なる「総合小説」であり、「ポリフォニー小説」であることが、他作品を語ることによって自作を語るようにして、理解できるようになっているのではないか思う(この時点ではまだ『決壊』は書かれていなかったにせよ)。

 また、ここに引用された『金閣寺』の、「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に沸き立った。」という箇所を読んで『空白を満たしなさい』のタイトルを想起しない平野ファンがいるだろうか?あのタイトルは明らかに『金閣寺』のこの箇所を意識してネーミングされているのである。作品をそれぞれ独立して個別に読めることは勿論ながら、平野氏は自作を全的に捉えられることをも意識し、またそれを可能にしている作家であることは他でも書いたが、新書といえども、それはまた例外ではないのだ。

 スロー・リーディングによって、小説の中の文章や議論の組み立てを慎重に見ておけば、自分が文章を書くときの参考になる、と著者は指摘する。その論拠こそがこの『本の読み方』であり、その意味でも、平野啓一郎は本書において、まさに「スロー・リーディングの実践」をしてみせたのである。

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by ok-computer | 2019-06-10 20:48 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(0)

最近読んだ本(『ニムロッド』『82年生まれ、キム・ジヨン』ほか)

上田岳弘『ニムロッド』

とりあえずamazonに掲載されているレビューは信用しなくていい。何も無い所から価値を生み出すという点において、小説と仮想通貨を結びつける慧眼、そして、様々なマテリアルとトピックをモザイク状に配置して一幅の作品を編み上げるその手腕に驚嘆した。短いが確かな読み応えがある。

朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』

巧みにコーティングされてはいるものの、政治的とも言ってもいいくらいにメッセージ色が濃い。あの朝井リョウでさえ(失礼)も書かずにはいられないほど、昨今の日本社会に対する危機感は強いということか。「何もないところに無理やり対立を生んで、やっと、存在を感じられる」というのは平成という時代を優れて言い表している。作者が現代日本文学の最前線に躍り出たことを示す力作。

イアン・マキューアン『アムステルダム』

死んだ1人の女性を巡る、4人の男たちの渦巻く虚栄心と、巧みな伏線が張り巡らされたプロット。最後に笑うのは誰か?「ひとつ条件がある。君も同じようにしてくれること」。予想はできなかったけれど、振り返ると納得するしかない結末に唸らされた。音楽ファンにとっては、「グレツキをインテリ向けにしたような作曲家」と形容される作曲家クライヴ・リンリーのモデルについて推察するのも一興(ジョン・タヴナーかな?)。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

告発の書であり、問題提議の小説ではあるが、その筆致はどことなくユーモラスであり、小説的な感興にも不足していない。だが、描かれる内容は重く、ここにある男女格差や社会システムの歪みは日本でもそのまま当て嵌まることに何より愕然とさせられる。読後にはモヤモヤしたものが残るが、安易な結末にしなかったのは正解。いろんな意味で今必読の一冊だと言えるだろう。

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by ok-computer | 2019-05-05 16:43 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

最近読んだ本(『何様』『献灯使』ほか)

朝井リョウ『何様』

『桐島』や『何者』のチャラい文体が、キャラクターや作者自身の成長に合わせて洗練されたものに変化して、ますます作品に隙が無くなってきている。タイトル作など、理詰めで読者を説得しようとする余りに説教臭くなる局面もあるが、見事なオチで一蹴。上手い、べらぼうに上手い。

平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』

創作を通じてのカフカや安部公房の再解釈、現代美術に対する批評、引きこもりやPTSDといった社会問題に対する考察など、様々なスタイルと仕掛けで様々なテーマが作品の中で論考され、読み手に対して熟考と内省を促す、ずっしりとした重厚な読み応え。

多和田葉子『献灯使』

恍けたユーモアや言葉遊びの奥には常に不穏な響きが胎動する。ディストピア小説という位置付けだが、海外の読者から見れば、日本のリアリティある未来予想図だと受け止められているのかもしれない。表題作における、無名の15歳のシーンはすべて今際の際の夢だと感じたが如何なものか?

柳美里『ゴールドラッシュ』

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という命題を、横浜市黄金町の地べたに生きる市井の人々の、哲学的になり過ぎないリアリティのある言葉と多人称的構成で考察していく。圧倒的な読書体験だが、消化し切れなかった部分も。きっとまた読み返すことになるだろう。

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by ok-computer | 2019-03-27 19:27 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

柳美里『家族シネマ』

 柳美里『家族シネマ』を読了。

 もっと陰々滅々なものを想像していたが、主人公と彫刻家とのやり取りなど、結構笑える(笑うしかない)ような場面が多くて、ジョン・アーヴィング的な味わいも感じられた。小説内映画という、虚構の入れ子構造を採っているのも、距離を置いて、フィルターを通しつつテーマを扱いたいという作者の意図の表れではないだろうか。

 銭湯の合わせ鏡の中で主人公と少女がお互いを眺めまわすくだりが印象的で、相手の無防備な姿と、普段は見ることのない自分の後ろ姿とが鏡の中で交錯する。それはまた、別の場面で、お互いに母親に似ている点をあげつらっては非難し合う姉妹の姿とも重なり、崩壊してもなお、その呪縛から抜け出すこと叶わぬ「家族」を描くこの作品を優れて象徴している。

 柳さんの別の作品も読んでみたくなった(次は『ゴールドラッシュ』かな)。

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by ok-computer | 2019-02-01 16:54 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

朝井リョウ『何者』

 元旦にNHKラジオ第1で放送された『高橋源一郎の「平成文学論」』のなかで、高橋さんが平成を代表する三冊のうちの一つに挙げていたこと、また先日読んだ『桐島、部活やめるってよ』が存外面白かったこともあって、手に取ってみたのですが、これがまた滅法面白い小説でした。

 これだけ面白いのだから、また直木賞受賞作なのだから、きっとこの本は純文学ではないのでしょう。では、一体「純文学」とは何なのでしょう?ウィキペディアによると、<大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語>であり、<北村透谷の評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』において、「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」として定義された>とあります。ふむ、分かったような分からんような。。。

 もしかしたら、映画に置き換えてみると分かりすいのかもしれません。ハリウッド映画と、ヨーロッパやインディーズ系の映画との違い。ハリウッド映画は豪華で華やか、特撮も見事で、観ている間はその世界に浸って楽しむことができますが、映画館を出てしまえば、すぐにその内容など忘れてしまって、「晩ご飯に何食べようか?」などと、普段の生活へとスムーズに戻ることができる。一方で後者は、テーマは抽象的、ストーリーラインは不明瞭、アンチ・ハッピーエンディングということで、観賞後すっきりしないことも多いですが、上手くいけば、強烈な映画体験として、いつまでも観る者の心に残ることとなる・・・というのは、あまりに紋切り型で単純化し過ぎだとは思いますが、ごく大まかに捉えれば、そのようなものではないでしょうか。

 その一方で、例えばマーティン・スコセッシやクリストファー・ノーランの映画は、実質的にはハリウッド映画であるにも関わらず、その偉大性がゆえに誰も彼らの作品(『バットマン』を除く)を「ハリウッド映画」であるとは言いません。

 つまり、いまだに大衆小説(ハリウッド映画)が純文学(ヨーロッパ映画)よりも芸術的に低いもの(!)だと看做されているのであれば、ぼくは『何者』をエンタメ小説だと言い切りたくはない、ということです。たしかに『何者』の文体は軽いです、というか、チャラい、と太文字で形容したくなるくらいです。しかしながら、平成という時代を舞台に、活き活きとした若者(大学生)の生態を、そして「就活」という人生の局面を、文化人類学的に、かつ、台詞と地の文とのギャップを感じさせずにリアリティを持って描くのであれば、この文体は必然だと言えるのではないでしょうか。それに較べれば、村上春樹の『海辺のカフカ』の主人公、15歳の少年「僕」の内的独白はずっと大人びてはいますが、まるでリアリティが無いとも言えるでしょう(そういう意味で村上春樹は『海辺のカフカ』で、15歳のリアルではなく、神話的世界を描きたかったのだと言えます)。

 それはともかくとして、『何者』においては、その軽やかな文体にも関わらず、それらを駆使して表現された内省は深く、登場人物の(おそらくは)無意識的なままの行動や、意識の表面にまではなかなか浮上してこないような心理を描き、そして、それらを丁寧に掬い上げるために、作品はエピソードの積み重ねを中心に構成されており、明確なストーリーラインは存在せず、中心となる6人(そのうちの一人は、桐島くんと同じく、作品に直接登場することはない)がそれぞれに抱える問題は最後のページに辿り着いても何一つ解決されることはありません。まるでヨーロッパ映画みたいです。あるいは、純文学か?大衆小説か?と論じてみること自体、あまり意味のないことなのかもしれませんが、読み終わったらすぐに忘れてしまうような小説とは異なり、その手法とその「ひっかかり」具合において『何者』には、やはり純文学的なものを強く感じます(逆に、ドラマティックなストーリーテリングを期待すると肩透かしを食らうのかも)。

 自分がまだ何者なのか分からないのに、何者かであるフリをして、トランプのブラフみたいに、裏向きでカードを差し出す。友人との自分、先輩との自分、バイト先での自分、就活や面接での社会的な自分、twitterやfacebookのアカウント毎の自分・・・・この作品は「就活」という特殊な状況から帰納して、ネット時代におけるアイデンティティの問題を鋭く描き出すことに成功していると言えます。そして、それはまた、暗い真実であるのかもしれません。

 だからこそと言うべきか、安全な場所から眺めている(読んでいる)と思ったら、いきなり刀の切っ先がこちらに向けられたかのような、後半の展開には相当なインパクトがありました。読者は語り手に共感する(しやすい)という習性を逆手に取った、その絶妙なトリックは、それゆえに、その場面における、理香が拓人に放つ言葉のいちいちが、それを読む我々にズブズブと突き刺さってくるのです。それは安易な共感や、おざなりで無責任な批評を糾弾する一方で、何者かになりたいともがく者へのシンパシーであり、何者にもなれなかった者へのレクイエムであるようにも響きます。

 就活を扱った作品ながら、面接の場面が出てくるのは、最後の最後、たったの1回だけです。その慎ましやかなエピソードは、しかし、暗闇のトンネルの中で、もしかしたらそこから抜け出すことができるのではないかと期待させるもので、最初のページからひたすらに積み上げてきた何モノかによって、それはたしかに光明であるに違いないと、物語の主人公と読者の両方に信じさせるのです。お見事!と言うしかありません。

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by ok-computer | 2019-01-28 11:56 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『考える葦』

 現代思想的、あるいは哲学的な知識と語彙がぼくの中に決定的に不足しているために、読みこなすのにとても時間がかかった。しかしそれは同時に、刺激的かつ幸せな時間だった。現代日本文学最大の知性が何に対して興味を持ち、どう考察しているのか。知らなかったことを知り得る上に、曖昧にただ感じていたに過ぎないことを言語化してもらうことによって、ある意味インスタントに自己更新できることは読書する喜びのひとつであるに違いない。

 一頃の平野作品に対する一般的なイメージは「難しい」「分からない」というものだったと思うし、それはストレートな感想だとも感じるが、その後に続く言葉は「つまらない」ではなく、「難しい」から、「分からない」からこそ「面白い」のだし、もっと平野作品を読みたく(理解したく)なり得るのだと個人的には考えている。これは現代アート全般を鑑賞する際にも言えることで、分からないことを分からないままにまずは楽しんで、そこから系統立てて調べたりして掘り下げてみればいいだろう。分からない(と思う)ことを楽しむのは、多様性を尊重するということに繋がるのだし、畢竟、世の中をより楽しむ結果にもなり得るだろう。反対に、「分かる」ことだけを恣意的に受け入れるような態度というのは、みすみす自身をガラパゴス化して、やがては自家薬籠的にやせ細っていくしかなくなるだろう。いや、それだけならまだしも、内向きに先鋭化してしまっているのが昨今の日本の状況だとも言える。

 67篇に渡るこの論考集において取り上げられるのは、三島由紀夫から始まり、大江健三郎、谷崎潤一郎、森鴎外、そしてフランス文学へと遡る文学論、ドラクロワやシャセリオーのような、19世紀ロマン主義の画家から、横尾忠則、トーマス・デマンド、広川泰士までの広範に及ぶ美術批評、ドイツ哲学からポストモダンを経て、現代に至る思想史、さらにはマイルス・デイヴィス、マルタ・アルゲリッチ、クリストファー・ノーラン・・・などなどで、その多岐に渡る博識とペダンチスムには付いていけない(プロレスを文化人類学的に分析する人は平野啓一郎くらいだろう!)こともしばしばだが、それはまた、沸々と知的好奇心を刺激して、もっと本を読まなくては!もっと美術館やギャラリーに行かなくては!と思わせられる。三島由紀夫について<古今東西のあらゆる文学作品に言及しては、読者にそれを「読みたい」気にさせる名人>だと評するが、これはそのまま、この本と平野氏自身にも当て嵌まる。

 この数ヶ月で実感したのは、「作家」というだけで有り難がられる時代はとうに終わったということだ。それは、芥川賞を当時史上最年少で穫った人であっても、映画化が決定する前に『マチネの終わりに』が20万部以上のヒットとなった当代随一の作家でも変わらない。さらに、知性的・理性的であろうとすればするだけ(何故か)世の反感を買ってしまうというこの時代において(知性的・理性的な)作家であることの困難を思う。しかしながら、この反知性の時代に対抗するのは、やはり知性を持ってしかないのだと考えざるを得ない(そうでないとするなら「理性」を捨てなくてはならない)。少なくとも、『決壊』で絶望を描いたこの作家はいまだに希望を捨ててはいないのだ。それが伺える「後書き」のパラグラフを紹介してこの感想文の終わりとしたい。

 <私たちは、今日、巨大な世界との対峙を余儀なくされている。なるほど、個々には葦の一本に過ぎまいが、しかし、決して孤立した葦ではない。古今東西に亘って、たくましく繁茂し続けている一群の葦であり、宇宙を包み込むのは、その有機的に結び合った思考である。>

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by ok-computer | 2019-01-13 17:47 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 この本のデザインは、単行本・文庫ともに、(裏ではなく)表紙にあらすじが明記されているという珍しい仕様になっている。しかも上巻に書かれているそれには、小説を300ページくらい読み進めて初めて出てくる、ある重要な事件について触れてしまっているのだ!

 平野氏は様々なメディアで、『ある男』や『マチネの終わりに』で序文を付けた理由として、自身は静かに小説を始めたいが、冒頭から盛り上がりを期待する現代の読者を納得させるために、19世紀のフランスの小説などで使われていた序文という手法を用いた、という趣旨のことを述べているが、『決壊』の表紙に記されたあらすじについても同じようなことが言えるのかもしれない。他方、これがある為に、最初のページに出てくる人物がその後どんな運命を辿ることになるのかが読者には予め分かってしまうことになるのだが、「何が」起こるのかではなく、「なぜ」起こってしまったのか?という点にこそフォーカスしてもらいたいという考えがあるのかもしれない。

 そう、この小説の最初の一文であり、第七章のタイトルでもある「なぜだろう?」(←実際には傍点有り)というフレーズは、最後まで読み終わった時、真っ先に僕の頭によぎった言葉であり、その疑問の多くがこの小説のメイン・キャラクターである、沢野崇という特異な人物像を通してもたらされたものであるのは間違いのないところであろう。この複雑怪奇な人物を創造したことが、作者がこの作品で成し得たひとつの到達点であることには異論はないものの、彼という存在は一体何だったのか?ということに関しては全く心許ない限りで、沢野崇が現代思想や人文科学などについて饒舌に語る内容に(恥ずかしながら)ついていけない部分があることも確かなのだが、それと平行して、彼の博識と饒舌は煙幕であって、タマネギを剝いていったら最後に何も残らないのと同じように、結局のところ(協調性には異常に富んではいるものの)虚無的な人物に過ぎないのでは?という想いを最後まで払拭することができなかった。

 作中、犯罪加害者の家族に対して、無関係の第三者が粘着質的な嫌がらせをする場面が具体的に描かれる一方で、(被害者家族である)沢野崇は<共感の暴力性>について以下のように語る。

「世間で言うところの被害者への共感っていうのは ― いいかい? ― それは少なくとも、この俺が感じていることとは何の関係もないんだよ!だけど、今の社会は、そうした共感による共同体という夢を、決して断念出来ないね。(中略)そういう社会はね、赦しの契機をどこまでも先延ばしにするだろうね。だって、赦さないことで、人間は同じ一つの感情を共有して、互いに結び合うことが出来るんだから!」

 また、須田という刑事の心の声として「沢野崇という人間は、なにか彼が、自分でも説明のしようもなく無性にムカムカする存在であり、この世界から完全に消えてなくなってしまえばいいと心の底から願っている、まさにそのもので、見ているだけでも腹が立ち、言葉を交わすだけでも虫酸が走るのだった」とまで書いている。

 本来、同情を寄せられ、共感を呼ぶはずの立場の人間である沢野崇をこれほどまでに徹底してそれらの感情を呼び覚まさない人物として造形しているのは、犯罪被害者と加害者両方の家族の厳しい現実を仮借なく描いているこの作品そのものに対して、読者が安易で短絡な共感や同情を寄せてはもらいたくないという、作者の鋼のような強い意志のようなものを感じてしまうのだ。

 もう一点、言及しておきたいのが、ドストエフスキーについて。『決壊』を書くにあたって、かのロシアの文豪を意識したことは平野氏も認めているところだが、なかでも『悪霊』との類似性は見逃せないだろう。19世紀ロシアの革命組織の内ゲバを題材として、<悪霊(のようなもの)>に取り憑かれた人々を描く『悪霊』と、2002年の日本を舞台に、<悪魔>と名乗る連続殺人犯と、その行動や声明文に触発された人々による同時多発テロとが描かれる『決壊』とは、その物語構造のみならず、スタヴローギンと沢野崇というそれぞれの主人公の、優秀なエリートであり、モテモテのイケメンであり、ニヒリスト(スタヴローギンは「彼は自分が何も信じていないということさえ信じていない」と評される)でもあるという人物設定についても(更に言えば、ふたりが最後に辿る運命も)共通している。平野啓一郎がドストエフスキー的な総合小説を目指したのはおそらく間違いないだろう。そしてまた、それにほとんど成功していると言っても差し支えないと思う。ただ、高度に情報化された現代の複雑な社会をそのまま反映した、とてつもない情報量と複雑さを兼ね備えた『決壊』(『悪霊』より複雑怪奇なのだ!)を、現代の読者である我々が(少なくとも僕自身は)簡単には読みこなすことができないこともまた、『決壊』をめぐる構造的な問題点であるとも言える。

 さらに、やや余談になるが記しておきたいことが一つ。『決壊』の中に出てくる、大きな鏡に映し出された自分の姿に間違って恋をして、以後、そこに熱心に通いつめ、求愛行動をし、巣作りまで始めてしまったというペリカン「カッタくん」のエピソードは本当にあった話。

 『決壊』では、これに関してそれ以上は追及されてはいないが、注目すべきは、近作『ある男』において、ナルキッソスの水仙の花への<変身>から、弁護士の城戸が“ある男”Xの自己愛の欲求へと思い至ることになるくだりへと見事に繋がっている点。平野啓一郎という人が、その作品を個々にはもちろん、全的に捉えられることも意識し、またそれを可能にしている作家であることを示す証左ではないかと思う。

 さて、そろそろこの駄(感想)文の結びを探らなければならない。僕は『決壊』のラストシーンに呆然としてしまったクチである。そして、先述のように、「なぜだろう?」と問い直さずにはいられなかった。『決壊』は作家のテクニックによって屁理屈を美文で綴ったような作品では決して無い。『決壊』は体感する(できる)小説である。<決して赦されない罪>を、読み進めるのが苦しくなるほどに、スーパーリアリズム的に描いた作品である。矢鱈と身体の動きに関する描写が多用されているのもそのためだろう。それと同時に、人間の内面世界に深く沈潜し、分人主義へと到達する一歩手前の、多人格を同価値・並列に扱う手法が試みられ、それゆえに沢野崇の複雑怪奇なキャラクターはそのまま作品の奥行き、深み、複雑さへと繋がってゆく。現代思想、現代アート、ネット・リテラシー、事件をめぐる報道やメディアの在り方、死刑制度、犯罪被害者と加害者家族の問題、いじめ問題、<幸福>というファシズムなどなど、社会が抱えるあらゆるトピックを呑み込みながら、立ち現れてくるのは、『日蝕』の巨人のような、現代日本の肖像とでも呼ぶべき、小説というレンズを通した巨大な実像(あるいは虚像なのか?)である。その圧倒的な体験の前で成すべきことは、中途半端な理解のまま140文字以内でつぶやくことではおそらくないはずだ。読むこと、読み返すこと。詰まるところ、読者である僕らにできるのはそれだけだし、まさにそれこそが、作品ひいてはその作者に、会うよりもなお近づくことができる最良の方法でもあるのだ。

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by ok-computer | 2018-12-26 19:28 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)