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平野啓一郎『ある男』(2回目)

 平野啓一郎『ある男』を読了(2回目)。

 最初にこの作品を(「文學界」2018年6月号で)手に取った時には、まだ平野氏の作品は『マチネの終わりに』と短編集『透明な迷宮』しか読んだことがなかった。しかし、今回再読するまでの間に、それらに加えて更に5作品を読み進めたこともあって、複数の作品に通底するテーマや、彼が提唱している分人主義(「個人」に対する概念で、本当の自分などというものは存在せず、対人相手ごとにその関係性の中で生まれる「分人」の集合体が「自分」であり、人の個性は、その「分人」の構成比率によって決定される、というような考え方)についてもある程度理解が及ぶようになってきた。そうすると、半年を置かずに読んでいるはずの作品の細部に、決して忘れてしまっていたということ(だけ)ではなく、違った角度から光が差し込んで、最初読んだときには深く考えもせず読み飛ばしていたような一行に、その意味するところの奥行きを感じ取れるようになったことは、ある意味で初見時よりも新鮮な発見に満ちた読書体験となり得たし、そもそも作品がそのように(=何度読んでも耐えられるように)精巧に作られていることに思い至るにあたって、深く感じ入ることとなった。

 とは言え、初めて『ある男』を読んだときも間違いなく良作であることは確信していたものの、『マチネの終わりに』と較べると、分量的に少なく、物語の舞台(世界を股にかけて描かれる『マチネの終わりに』に較べ、『ある男』は横浜・東京・名古屋・宮﨑と国内の移動に留まっている)や構造(物語を織り成すレイヤーの厚み)においてもスケールダウンした印象があり、それがやや物足りないと感じていた。しかし、今こう書いてみて自分でもよく分かったが、それは同じ理由で『羊をめぐる冒険』が『1Q84』よりも劣ると(愚かにも)言ってしまうような、表面的で浅い読み方しか出来ていなかったことの裏返しだったのだと痛感する。

 先述の「複数の作品に通底するテーマ」について言えば、とくに近作では、生き延びるために「生き直す」、愛を持続させるために「愛し直す」ということが平野文学の重要なテーマとなっていることは論を俟たないだろう。『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』といった作品の中でも、それら二項目が背反することなく、他の様々なテーマやエピソードと並列して描かれている。そう、今挙げた作品群においては、「生き直す」「愛し直す」というテーマはもちろん重要ではあるが、縦軸と横軸が複雑に絡まってゆく、現代の総合小説とでも言うべき、その多層的な物語構造の中では、何よりも際立っているとは言い切れない部分があった。

 しかしながら、『ある男』においては、多層的なテーマ(死刑制度、ヘイトスピーチ、犯罪被害者家族と加害者家族の問題など)は維持しながらも、作品を構成するレイヤーはやや薄くなり(初読では物足りなく思えた部分)、代わりにこれまでにも追求されてきた「生き直す」「愛し直す」というテーマが抽出されて結晶化したような趣と美しさとがある。

 繰り返すことになるが、これまでにもこれら二つのテーマは平野氏の小説の中で様々なかたちで追求されてきた。『ある男』の主人公である、城戸という弁護士が思い煩う、愛が冷めたという訳ではなく、長年連れ添ってきた夫婦の必然でもある倦怠についても、既に『ドーン』において(もう少し若いカップルで)検証・考察されていたが、さらに経年して、中年世代のアイデンティティ・クライシスという新たなテーマを加えながら変奏・再考されている。

 『ドーン』の火星有人探査プロジェクトやアメリカ大統領選、『かたちだけの愛』の芸能界やプロダクトデザインの世界、『空白を満たしなさい』の<よみがえり>現象といった、華やかであったり、突飛であったりした舞台背景はもはや必要なく、日本国内の平均的な都市や辺鄙な田舎町に暮らす市井の人々のありきたりな生活の中の、決してありきたりではない孤独や哀しみ、逃れることのできない出自などに、透徹した筆致でありながらも優しい眼差しをもって寄り添ってゆく。「愛」や「思いやり」といった、扱い方によっては鼻白んでしまいそうなテーマに果敢に挑み、それを描き切ったところにこそ、作者の成熟を見る思いがする(そして、それを一読したときには分からなかった己の不明を恥じることになる)。

 二度目の読書が終わって、再び『ある男』の序文に戻ってみると、「城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じでいた。(中略)そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。」という一文に(改めて)出会わすことになる。他人を通して自分を知ることこそは、まさに文学がこれまでずっと成してきたことであり、今もなお小説が必要とされる理由でもある。そして、素晴らしいアート作品に触れたときに感じる、いつまでも消えずにいてほしいと願う余韻の中で、目を瞠る思いで、作者である平野啓一郎氏の背中を見つめ直すことになる。ある偉大な小説家と同時代を生きることの幸福を噛み締めながら。

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by ok-computer | 2018-12-08 19:46 | | Trackback | Comments(0)

Sakurako Fujii Solo Exhibition “nude”(@DMOARTS/大阪市北区)

イラストレーターで作られたデジタル部分に加えて、アクリル絵具で彩色・鉛筆で描画。
筆のストロークやタッチがそのまま身体のパーツに用いられているのが特徴。
キャンバスの白と彩色された白との使い分け、空間と余白の使い方の巧みさが目を惹く。

多分に感覚的で、描くのも速いとご本人は仰っていましたが、そこには熟考の痕も伺われます。
この軽やかな表現を見ていると、デジタルと手描き併用の必然性とか
作家の内発的動機について問うのは野暮というか、
それよりも若手作家の作品に接するときの喜びでもある、限りない可能性の萌芽を、
藤井さんの作品の中で豊かに広がる、その余白部分に見る思いがしました。

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by ok-computer | 2018-12-03 12:40 | アート | Trackback | Comments(0)

林勇気 『遠くを見る方法と平行する時間の流れ』(@FLAG studio/大阪市西区)

 ランダムに選んだ著作権フリーのビデオのタイムラインを、ドローイングのラインのように、上から下へと滴るドリッピングのように、はたまた、スタジオに吊るされたフィルムのように構成した作品。

 映像作品のアーカイブと時間軸という視点から、映像とは何か、メディアとは何か、デジタルデータとは何かを再考する、ここ最近の林さんの取り組みの流れの中に位置付けられる作品。動機と作品との有機的な繋がり、そしてそれを踏まえた上で、ただただ美しいと言うしかないイメージ。

 林さんの展示を見るのは、「電源を切ると何も見えなくなる事」(京都芸術センター)、「i want you あなたがほしい」(あまらぶアートラボ A-Lab)に続いて3回目ですが、通底するテーマを維持しながらも、毎回新規で新奇なイメージを提示されるので、いつも期待以上の深い感銘(と、見に来て良かった!という思い)を与えてもらっています。今回初めて(少しだけ)ご本人とお話しすることができましたが、とてもキンチョーしました(笑)

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by ok-computer | 2018-12-02 23:59 | アート | Trackback | Comments(0)