音楽の海岸

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2018年のベスト・アルバム

10. Brad Mehldau Trio / Seymour Reads The Constitution!

ジャズ・ファンの人からは「今さら?」と笑われるでしょうが、ブラッド・メルドーの魅力に(ようやく)開眼したことは今年の収穫でした。来年も聴き進めていきます。



9. Gorillaz / THE NOW NOW

才気煥発のあまり、最近はアルバムを出し過ぎの感もあるデーモン・アルバーンですが、ジョージ・ベンソンを引っ張り出してくるようなセンスはさすが(PVでは何故かジャック・ブラックですが)。




8. Mac Miller / Swimming

アリアナ・グランデとの関係で、その死さえも芸能ゴシップ的に扱われているが、長期的には、この素晴らしいアルバムの作者として記憶されるべき。



7. Sunflower Bean / Twentytwo In Blue

1stに続き、2ndアルバムも傑作。NYブルックリン出身の3ピース・ロックバンド、サンフラワー・ビーンはハイプではないことを証明してみせた。



6. Soccer Mommy / Clean

女性ミュージシャンの活躍が目立った2018年の中でも、スネイル・メイルと並んで、際立っていたのはこの人でしょう。I don't wanna be your fucking dog!



5. Let's Eat Grandma / I’m All Ears

イギリスの「恐るべき子供たち」Let's Eat Grandmaの2ndアルバム。才気はそのままに少しだけアップ・トゥ・デイトなテイストに。



4. Tom Misch/ Geography

ジャズ・ギターからR&B、ヒップホップまでを卒なく纏め上げた手腕に脱帽。お洒落だが、ただ単に聴き流して消費されるだけには終わらないという、強い意志と才能を感じる。




3. Jon Hopkins/ Singularity

タイトル曲冒頭の不穏な音像からビートが立ち現れてくる瞬間にゾクゾクする。きちんとした再生装置で聴くと本当にキモチイイです。




2. Mitski / Be The Cowboy

1曲1曲が短く、かつコンパクトな中にも色んな展開があったりするので、最初は曲の構造を捉えるのに苦労するが、聴き返すごとに良くなってくる。見事な小曲集。




1. The 1975 / A Brief Inquiry into Online Relationships

このバンドがこれほど大化けするとは!2018年のみならず、2010年代を代表すると言っても過言ではない傑作。「Sincerity Is Scary」の、緩いダンスとファンタジーが入ったワンカット仕立てのPVもナイス。



by ok-computer | 2018-12-30 13:42 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

21世紀のベスト・アルバム(これまでのところ)<23>

Kanye West / 808s & Heartbreak

カニエ・ウェストの作品の中でも、このアルバムは過小評価されていると思う。内省的な歌モノHIPHOPという趣で、カニエがビート・メイキングやサウンド・クリエイトだけでなく、メロディ・メイカーとしても秀でていることがよく分かる。彼の言動は感心しないことが多いけれど、それも含めて天才の所業だと言えるのかも。



by ok-computer | 2018-12-27 23:00 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 この本のデザインは、単行本・文庫ともに、(裏ではなく)表紙にあらすじが明記されているという珍しい仕様になっている。しかも上巻に書かれているそれには、小説を300ページくらい読み進めて初めて出てくる、ある重要な事件について触れてしまっているのだ!

 平野氏は様々なメディアで、『ある男』や『マチネの終わりに』で序文を付けた理由として、自身は静かに小説を始めたいが、冒頭から盛り上がりを期待する現代の読者を納得させるために、19世紀のフランスの小説などで使われていた序文という手法を用いた、という趣旨のことを述べているが、『決壊』の表紙に記されたあらすじについても同じようなことが言えるのかもしれない。他方、これがある為に、最初のページに出てくる人物がその後どんな運命を辿ることになるのかが読者には予め分かってしまうことになるのだが、「何が」起こるのかではなく、「なぜ」起こってしまったのか?という点にこそフォーカスしてもらいたいという考えがあるのかもしれない。

 そう、この小説の最初の一文であり、第七章のタイトルでもある「なぜだろう?」(←実際には傍点有り)というフレーズは、最後まで読み終わった時、真っ先に僕の頭によぎった言葉であり、その疑問の多くがこの小説のメイン・キャラクターである、沢野崇という特異な人物像を通してもたらされたものであるのは間違いのないところであろう。この複雑怪奇な人物を創造したことが、作者がこの作品で成し得たひとつの到達点であることには異論はないものの、彼という存在は一体何だったのか?ということに関しては全く心許ない限りで、沢野崇が現代思想や人文科学などについて饒舌に語る内容に(恥ずかしながら)ついていけない部分があることも確かなのだが、それと平行して、彼の博識と饒舌は煙幕であって、タマネギを剝いていったら最後に何も残らないのと同じように、結局のところ(協調性には異常に富んではいるものの)虚無的な人物に過ぎないのでは?という想いを最後まで払拭することができなかった。

 作中、犯罪加害者の家族に対して、無関係の第三者が粘着質的な嫌がらせをする場面が具体的に描かれる一方で、(被害者家族である)沢野崇は<共感の暴力性>について以下のように語る。

「世間で言うところの被害者への共感っていうのは ― いいかい? ― それは少なくとも、この俺が感じていることとは何の関係もないんだよ!だけど、今の社会は、そうした共感による共同体という夢を、決して断念出来ないね。(中略)そういう社会はね、赦しの契機をどこまでも先延ばしにするだろうね。だって、赦さないことで、人間は同じ一つの感情を共有して、互いに結び合うことが出来るんだから!」

 また、須田という刑事の心の声として「沢野崇という人間は、なにか彼が、自分でも説明のしようもなく無性にムカムカする存在であり、この世界から完全に消えてなくなってしまえばいいと心の底から願っている、まさにそのもので、見ているだけでも腹が立ち、言葉を交わすだけでも虫酸が走るのだった」とまで書いている。

 本来、同情を寄せられ、共感を呼ぶはずの立場の人間である沢野崇をこれほどまでに徹底してそれらの感情を呼び覚まさない人物として造形しているのは、犯罪被害者と加害者両方の家族の厳しい現実を仮借なく描いているこの作品そのものに対して、読者が安易で短絡な共感や同情を寄せてはもらいたくないという、作者の鋼のような強い意志のようなものを感じてしまうのだ。

 もう一点、言及しておきたいのが、ドストエフスキーについて。『決壊』を書くにあたって、かのロシアの文豪を意識したことは平野氏も認めているところだが、なかでも『悪霊』との類似性は見逃せないだろう。19世紀ロシアの革命組織の内ゲバを題材として、<悪霊(のようなもの)>に取り憑かれた人々を描く『悪霊』と、2002年の日本を舞台に、<悪魔>と名乗る連続殺人犯と、その行動や声明文に触発された人々による同時多発テロとが描かれる『決壊』とは、その物語構造のみならず、スタヴローギンと沢野崇というそれぞれの主人公の、優秀なエリートであり、モテモテのイケメンであり、ニヒリスト(スタヴローギンは「彼は自分が何も信じていないということさえ信じていない」と評される)でもあるという人物設定についても(更に言えば、ふたりが最後に辿る運命も)共通している。平野啓一郎がドストエフスキー的な総合小説を目指したのはおそらく間違いないだろう。そしてまた、それにほとんど成功していると言っても差し支えないと思う。ただ、高度に情報化された現代の複雑な社会をそのまま反映した、とてつもない情報量と複雑さを兼ね備えた『決壊』(『悪霊』より複雑怪奇なのだ!)を、現代の読者である我々が(少なくとも僕自身は)簡単には読みこなすことができないこともまた、『決壊』をめぐる構造的な問題点であるとも言える。

 さらに、やや余談になるが記しておきたいことが一つ。『決壊』の中に出てくる、大きな鏡に映し出された自分の姿に間違って恋をして、以後、そこに熱心に通いつめ、求愛行動をし、巣作りまで始めてしまったというペリカン「カッタくん」のエピソードは本当にあった話。

 『決壊』では、これに関してそれ以上は追及されてはいないが、注目すべきは、近作『ある男』において、ナルキッソスの水仙の花への<変身>から、弁護士の城戸が“ある男”Xの自己愛の欲求へと思い至ることになるくだりへと見事に繋がっている点。平野啓一郎という人が、その作品を個々にはもちろん、全的に捉えられることも意識し、またそれを可能にしている作家であることを示す証左ではないかと思う。

 さて、そろそろこの駄(感想)文の結びを探らなければならない。僕は『決壊』のラストシーンに呆然としてしまったクチである。そして、先述のように、「なぜだろう?」と問い直さずにはいられなかった。『決壊』は作家のテクニックによって屁理屈を美文で綴ったような作品では決して無い。『決壊』は体感する(できる)小説である。<決して赦されない罪>を、読み進めるのが苦しくなるほどに、スーパーリアリズム的に描いた作品である。矢鱈と身体の動きに関する描写が多用されているのもそのためだろう。それと同時に、人間の内面世界に深く沈潜し、分人主義へと到達する一歩手前の、多人格を同価値・並列に扱う手法が試みられ、それゆえに沢野崇の複雑怪奇なキャラクターはそのまま作品の奥行き、深み、複雑さへと繋がってゆく。現代思想、現代アート、ネット・リテラシー、事件をめぐる報道やメディアの在り方、死刑制度、犯罪被害者と加害者家族の問題、いじめ問題、<幸福>というファシズムなどなど、社会が抱えるあらゆるトピックを呑み込みながら、立ち現れてくるのは、『日蝕』の巨人のような、現代日本の肖像とでも呼ぶべき、小説というレンズを通した巨大な実像(あるいは虚像なのか?)である。その圧倒的な体験の前で成すべきことは、中途半端な理解のまま140文字以内でつぶやくことではおそらくないはずだ。読むこと、読み返すこと。詰まるところ、読者である僕らにできるのはそれだけだし、まさにそれこそが、作品ひいてはその作者に、会うよりもなお近づくことができる最良の方法でもあるのだ。

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by ok-computer | 2018-12-26 19:28 | | Trackback | Comments(0)

サッカー・マミー『Clean』

 2018年は女性アーティストが大活躍の一年でしたが、ぼくのイチ押しはナッシュビル出身20歳のソングライター、ソフィー・アリソンのソロ・プロジェクトであるSoccer Mommy (サッカー・マミー) 。

 フツーの女の子がフツーにギターを持って、フツーとは言い難い非凡な作品を何でもないかの如く世に送り出す。

 以下のライブ動画ではアルバム『Clean』のクロージング曲である「Wildflowers」(アルバム中、個人的に最もお気に入りの曲)の弾き語りを披露。スタジオ録音のオルタナ臭はやや薄まり、素朴な歌心が胸を打つ。




by ok-computer | 2018-12-20 21:48 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『ある男』(2回目)

 平野啓一郎『ある男』を読了(2回目)。

 最初にこの作品を(「文學界」2018年6月号で)手に取った時には、まだ平野氏の作品は『マチネの終わりに』と短編集『透明な迷宮』しか読んだことがなかった。しかし、今回再読するまでの間に、それらに加えて更に5作品を読み進めたこともあって、複数の作品に通底するテーマや、彼が提唱している分人主義(「個人」に対する概念で、本当の自分などというものは存在せず、対人相手ごとにその関係性の中で生まれる「分人」の集合体が「自分」であり、人の個性は、その「分人」の構成比率によって決定される、というような考え方)についてもある程度理解が及ぶようになってきた。そうすると、半年を置かずに読んでいるはずの作品の細部に、決して忘れてしまっていたということ(だけ)ではなく、違った角度から光が差し込んで、最初読んだときには深く考えもせず読み飛ばしていたような一行に、その意味するところの奥行きを感じ取れるようになったことは、ある意味で初見時よりも新鮮な発見に満ちた読書体験となり得たし、そもそも作品がそのように(=何度読んでも耐えられるように)精巧に作られていることに思い至るにあたって、深く感じ入ることとなった。

 とは言え、初めて『ある男』を読んだときも間違いなく良作であることは確信していたものの、『マチネの終わりに』と較べると、分量的に少なく、物語の舞台(世界を股にかけて描かれる『マチネの終わりに』に較べ、『ある男』は横浜・東京・名古屋・宮﨑と国内の移動に留まっている)や構造(物語を織り成すレイヤーの厚み)においてもスケールダウンした印象があり、それがやや物足りないと感じていた。しかし、今こう書いてみて自分でもよく分かったが、それは同じ理由で『羊をめぐる冒険』が『1Q84』よりも劣ると(愚かにも)言ってしまうような、表面的で浅い読み方しか出来ていなかったことの裏返しだったのだと痛感する。

 先述の「複数の作品に通底するテーマ」について言えば、とくに近作では、生き延びるために「生き直す」、愛を持続させるために「愛し直す」ということが平野文学の重要なテーマとなっていることは論を俟たないだろう。『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』といった作品の中でも、それら二項目が背反することなく、他の様々なテーマやエピソードと並列して描かれている。そう、今挙げた作品群においては、「生き直す」「愛し直す」というテーマはもちろん重要ではあるが、縦軸と横軸が複雑に絡まってゆく、現代の総合小説とでも言うべき、その多層的な物語構造の中では、何よりも際立っているとは言い切れない部分があった。

 しかしながら、『ある男』においては、多層的なテーマ(死刑制度、ヘイトスピーチ、犯罪被害者家族と加害者家族の問題など)は維持しながらも、作品を構成するレイヤーはやや薄くなり(初読では物足りなく思えた部分)、代わりにこれまでにも追求されてきた「生き直す」「愛し直す」というテーマが抽出されて結晶化したような趣と美しさとがある。

 繰り返すことになるが、これまでにもこれら二つのテーマは平野氏の小説の中で様々なかたちで追求されてきた。『ある男』の主人公である、城戸という弁護士が思い煩う、愛が冷めたという訳ではなく、長年連れ添ってきた夫婦の必然でもある倦怠についても、既に『ドーン』において(もう少し若いカップルで)検証・考察されていたが、さらに経年して、中年世代のアイデンティティ・クライシスという新たなテーマを加えながら変奏・再考されている。

 『ドーン』の火星有人探査プロジェクトやアメリカ大統領選、『かたちだけの愛』の芸能界やプロダクトデザインの世界、『空白を満たしなさい』の<よみがえり>現象といった、華やかであったり、突飛であったりした舞台背景はもはや必要なく、日本国内の平均的な都市や辺鄙な田舎町に暮らす市井の人々のありきたりな生活の中の、決してありきたりではない孤独や哀しみ、逃れることのできない出自などに、透徹した筆致でありながらも優しい眼差しをもって寄り添ってゆく。「愛」や「思いやり」といった、扱い方によっては鼻白んでしまいそうなテーマに果敢に挑み、それを描き切ったところにこそ、作者の成熟を見る思いがする(そして、それを一読したときには分からなかった己の不明を恥じることになる)。

 二度目の読書が終わって、再び『ある男』の序文に戻ってみると、「城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じでいた。(中略)そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。」という一文に(改めて)出会わすことになる。他人を通して自分を知ることこそは、まさに文学がこれまでずっと成してきたことであり、今もなお小説が必要とされる理由でもある。そして、素晴らしいアート作品に触れたときに感じる、いつまでも消えずにいてほしいと願う余韻の中で、目を瞠る思いで、作者である平野啓一郎氏の背中を見つめ直すことになる。ある偉大な小説家と同時代を生きることの幸福を噛み締めながら。

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by ok-computer | 2018-12-08 19:46 | | Trackback | Comments(0)

Sakurako Fujii Solo Exhibition “nude”(@DMOARTS/大阪市北区)

イラストレーターで作られたデジタル部分に加えて、アクリル絵具で彩色・鉛筆で描画。
筆のストロークやタッチがそのまま身体のパーツに用いられているのが特徴。
キャンバスの白と彩色された白との使い分け、空間と余白の使い方の巧みさが目を惹く。

多分に感覚的で、描くのも速いとご本人は仰っていましたが、そこには熟考の痕も伺われます。
この軽やかな表現を見ていると、デジタルと手描き併用の必然性とか
作家の内発的動機について問うのは野暮というか、
それよりも若手作家の作品に接するときの喜びでもある、限りない可能性の萌芽を、
藤井さんの作品の中で豊かに広がる、その余白部分に見る思いがしました。

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by ok-computer | 2018-12-03 12:40 | アート | Trackback | Comments(0)

林勇気 『遠くを見る方法と平行する時間の流れ』(@FLAG studio/大阪市西区)

 ランダムに選んだ著作権フリーのビデオのタイムラインを、ドローイングのラインのように、上から下へと滴るドリッピングのように、はたまた、スタジオに吊るされたフィルムのように構成した作品。

 映像作品のアーカイブと時間軸という視点から、映像とは何か、メディアとは何か、デジタルデータとは何かを再考する、ここ最近の林さんの取り組みの流れの中に位置付けられる作品。動機と作品との有機的な繋がり、そしてそれを踏まえた上で、ただただ美しいと言うしかないイメージ。

 林さんの展示を見るのは、「電源を切ると何も見えなくなる事」(京都芸術センター)、「i want you あなたがほしい」(あまらぶアートラボ A-Lab)に続いて3回目ですが、通底するテーマを維持しながらも、毎回新規で新奇なイメージを提示されるので、いつも期待以上の深い感銘(と、見に来て良かった!という思い)を与えてもらっています。今回初めて(少しだけ)ご本人とお話しすることができましたが、とてもキンチョーしました(笑)

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by ok-computer | 2018-12-02 23:59 | アート | Trackback | Comments(0)