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音楽の海岸

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朝井リョウ『何者』

 元旦にNHKラジオ第1で放送された『高橋源一郎の「平成文学論」』のなかで、高橋さんが平成を代表する三冊のうちの一つに挙げていたこと、また先日読んだ『桐島、部活やめるってよ』が存外面白かったこともあって、手に取ってみたのですが、これがまた滅法面白い小説でした。

 これだけ面白いのだから、また直木賞受賞作なのだから、きっとこの本は純文学ではないのでしょう。では、一体「純文学」とは何なのでしょう?ウィキペディアによると、<大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語>であり、<北村透谷の評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』において、「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」として定義された>とあります。ふむ、分かったような分からんような。。。

 もしかしたら、映画に置き換えてみると分かりすいのかもしれません。ハリウッド映画と、ヨーロッパやインディーズ系の映画との違い。ハリウッド映画は豪華で華やか、特撮も見事で、観ている間はその世界に浸って楽しむことができますが、映画館を出てしまえば、すぐにその内容など忘れてしまって、「晩ご飯に何食べようか?」などと、普段の生活へとスムーズに戻ることができる。一方で後者は、テーマは抽象的、ストーリーラインは不明瞭、アンチ・ハッピーエンディングということで、観賞後すっきりしないことも多いですが、上手くいけば、強烈な映画体験として、いつまでも観る者の心に残ることとなる・・・というのは、あまりに紋切り型で単純化し過ぎだとは思いますが、ごく大まかに捉えれば、そのようなものではないでしょうか。

 その一方で、例えばマーティン・スコセッシやクリストファー・ノーランの映画は、実質的にはハリウッド映画であるにも関わらず、その偉大性がゆえに誰も彼らの作品(『バットマン』を除く)を「ハリウッド映画」であるとは言いません。

 つまり、いまだに大衆小説(ハリウッド映画)が純文学(ヨーロッパ映画)よりも芸術的に低いもの(!)だと看做されているのであれば、ぼくは『何者』をエンタメ小説だと言い切りたくはない、ということです。たしかに『何者』の文体は軽いです、というか、チャラい、と太文字で形容したくなるくらいです。しかしながら、平成という時代を舞台に、活き活きとした若者(大学生)の生態を、そして「就活」という人生の局面を、文化人類学的に、かつ、台詞と地の文とのギャップを感じさせずにリアリティを持って描くのであれば、この文体は必然だと言えるのではないでしょうか。それに較べれば、村上春樹の『海辺のカフカ』の主人公、15歳の少年「僕」の内的独白はずっと大人びてはいますが、まるでリアリティが無いとも言えるでしょう(そういう意味で村上春樹は『海辺のカフカ』で、15歳のリアルではなく、神話的世界を描きたかったのだと言えます)。

 それはともかくとして、『何者』においては、その軽やかな文体にも関わらず、それらを駆使して表現された内省は深く、登場人物の(おそらくは)無意識的なままの行動や、意識の表面にまではなかなか浮上してこないような心理を描き、そして、それらを丁寧に掬い上げるために、作品はエピソードの積み重ねを中心に構成されており、明確なストーリーラインは存在せず、中心となる6人(そのうちの一人は、桐島くんと同じく、作品に直接登場することはない)がそれぞれに抱える問題は最後のページに辿り着いても何一つ解決されることはありません。まるでヨーロッパ映画みたいです。あるいは、純文学か?大衆小説か?と論じてみること自体、あまり意味のないことなのかもしれませんが、読み終わったらすぐに忘れてしまうような小説とは異なり、その手法とその「ひっかかり」具合において『何者』には、やはり純文学的なものを強く感じます(逆に、ドラマティックなストーリーテリングを期待すると肩透かしを食らうのかも)。

 自分がまだ何者なのか分からないのに、何者かであるフリをして、トランプのブラフみたいに、裏向きでカードを差し出す。友人との自分、先輩との自分、バイト先での自分、就活や面接での社会的な自分、twitterやfacebookのアカウント毎の自分・・・・この作品は「就活」という特殊な状況から帰納して、ネット時代におけるアイデンティティの問題を鋭く描き出すことに成功していると言えます。そして、それはまた、暗い真実であるのかもしれません。

 だからこそと言うべきか、安全な場所から眺めている(読んでいる)と思ったら、いきなり刀の切っ先がこちらに向けられたかのような、後半の展開には相当なインパクトがありました。読者は語り手に共感する(しやすい)という習性を逆手に取った、その絶妙なトリックは、それゆえに、その場面における、理香が拓人に放つ言葉のいちいちが、それを読む我々にズブズブと突き刺さってくるのです。それは安易な共感や、おざなりで無責任な批評を糾弾する一方で、何者かになりたいともがく者へのシンパシーであり、何者にもなれなかった者へのレクイエムであるようにも響きます。

 就活を扱った作品ながら、面接の場面が出てくるのは、最後の最後、たったの1回だけです。その慎ましやかなエピソードは、しかし、暗闇のトンネルの中で、もしかしたらそこから抜け出すことができるのではないかと期待させるもので、最初のページからひたすらに積み上げてきた何モノかによって、それはたしかに光明であるに違いないと、物語の主人公と読者の両方に信じさせるのです。お見事!と言うしかありません。

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by ok-computer | 2019-01-28 11:56 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)

ミシェル・ルグラン追悼

『ロシュフォールの恋人たち』のアルバムは、ぼくの一番好きなサウンドトラック盤です。
(もちろん、映画自体も素晴らしい)

自伝の『ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモロウ』も読みましたが、とても面白かった。
なかでも、「風のささやき(The Windmills Of Your Mind)」を歌ったノエル・ハリソンが
レコーディング当時の傲慢な態度を後になって反省し、
ルグランに「この曲を歌わせてくれてありがとう」と謝罪するくだりは、
胸を打つ、感動的なエピソードでした。

下の動画は『ロシュフォールの恋人たち』より、「マクサンスの歌」。
この曲を、そして、たくさんの名曲を聴かせてくれてありがとう。


by ok-computer | 2019-01-26 20:00 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

『The ACG Collection ー 大西康明、新平誠洙、水野勝規』@アートコートギャラリー

 今年のぼくの展覧会初めは、アートコートギャラリー(大阪市北区)の「The ACG Collection」でした。

 展示作品は、大西康明さんの『circulation of water』、新平誠洙さんの『Hell Screen』、水野勝規さんの『monotone』と『sky record』の、全部で4点だけでしたが、どれも非常に見応えのある作品で、3人ともコレクション展では勿体無いなぁ!と感じました(次回は個展をお願いしたい)。

 以下、個々の作品の感想を記してゆきます。

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 新平誠洙さんの『Hell Screen(地獄変屏風)』。6コマのモーフィングのような連作絵画。元々は京都市立芸術大学内のギャラリー@KCUAで開催された、田村友一郎さんの個展『叫び声/Hell Scream』のための作品で、京都市立芸術大学とは所縁の深い、田能村直入と富岡鉄斎という二人の文人画家をモチーフにしたもの。時間と空間、さらにそれらに潜む軋み(ノイズ)を、多様式主義的に様々なアプローチで探求する新平さんのベクトルと見事に合致して、これはなかなか素晴らしいのではないでしょうか。

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 新平さんも、後述の水野さんと同じく、時間経過を作品の主題の一つにしています。原理的に時間経過を内包する映像作品とは異なり、絵画に時間軸をいかに取り込むかは、そのまま、現代において必要とされる絵画とは?という命題へと繋がるような気がします。

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 水野勝規さんの『sky record』。作家の自宅より見上げた空を、4K機材で定点撮影した映像作品。青空に飛行機雲が伸びてゆく様を通して時間の経過を観る者に意識させます。途中何度か映像が静止する瞬間があって、じっと見つめていると、その度に息が止まりそうになってしまったのですが、ギャラリースタッフに聞いたところ、意識的に静止させているのではなく、機材の問題じゃないんですかねー、とのこと。本当のところはどうなんでしょう?

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 大西康明さんの『circulation of water』。宙空に吊るされたポリエチレンシートが、展示空間内の空調や人の動きを察知して、目に見えない空気の流れを可視化する。大きな装置によって微細な動きを感知しようとするコンセプトが秀逸。響き合うマクロとミクロとでも言うべきか。大西さんは同時期に開催している『5RoomsⅡ—けはいの純度』(神奈川県民ホール)では、カラフルな紙テープを使った、新境地とも言える作品を発表しており、今後も目が離せません。

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 大西さんの『circulation of water』は、作品の中に入ってもいいそうで、その様子を撮影してみました。子どもを連れてきたら、喜んで遊びそうですね。まあ、黒装束の物静かな女性スタッフが鎮座するアートコートのあの雰囲気でそれが出来れば、の話ですが(笑)



by ok-computer | 2019-01-15 21:15 | アート | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『考える葦』

 現代思想的、あるいは哲学的な知識と語彙がぼくの中に決定的に不足しているために、読みこなすのにとても時間がかかった。しかしそれは同時に、刺激的かつ幸せな時間だった。現代日本文学最大の知性が何に対して興味を持ち、どう考察しているのか。知らなかったことを知り得る上に、曖昧にただ感じていたに過ぎないことを言語化してもらうことによって、ある意味インスタントに自己更新できることは読書する喜びのひとつであるに違いない。

 一頃の平野作品に対する一般的なイメージは「難しい」「分からない」というものだったと思うし、それはストレートな感想だとも感じるが、その後に続く言葉は「つまらない」ではなく、「難しい」から、「分からない」からこそ「面白い」のだし、もっと平野作品を読みたく(理解したく)なり得るのだと個人的には考えている。これは現代アート全般を鑑賞する際にも言えることで、分からないことを分からないままにまずは楽しんで、そこから系統立てて調べたりして掘り下げてみればいいだろう。分からない(と思う)ことを楽しむのは、多様性を尊重するということに繋がるのだし、畢竟、世の中をより楽しむ結果にもなり得るだろう。反対に、「分かる」ことだけを恣意的に受け入れるような態度というのは、みすみす自身をガラパゴス化して、やがては自家薬籠的にやせ細っていくしかなくなるだろう。いや、それだけならまだしも、内向きに先鋭化してしまっているのが昨今の日本の状況だとも言える。

 67篇に渡るこの論考集において取り上げられるのは、三島由紀夫から始まり、大江健三郎、谷崎潤一郎、森鴎外、そしてフランス文学へと遡る文学論、ドラクロワやシャセリオーのような、19世紀ロマン主義の画家から、横尾忠則、トーマス・デマンド、広川泰士までの広範に及ぶ美術批評、ドイツ哲学からポストモダンを経て、現代に至る思想史、さらにはマイルス・デイヴィス、マルタ・アルゲリッチ、クリストファー・ノーラン・・・などなどで、その多岐に渡る博識とペダンチスムには付いていけない(プロレスを文化人類学的に分析する人は平野啓一郎くらいだろう!)こともしばしばだが、それはまた、沸々と知的好奇心を刺激して、もっと本を読まなくては!もっと美術館やギャラリーに行かなくては!と思わせられる。三島由紀夫について<古今東西のあらゆる文学作品に言及しては、読者にそれを「読みたい」気にさせる名人>だと評するが、これはそのまま、この本と平野氏自身にも当て嵌まる。

 この数ヶ月で実感したのは、「作家」というだけで有り難がられる時代はとうに終わったということだ。それは、芥川賞を当時史上最年少で穫った人であっても、映画化が決定する前に『マチネの終わりに』が20万部以上のヒットとなった当代随一の作家でも変わらない。さらに、知性的・理性的であろうとすればするだけ(何故か)世の反感を買ってしまうというこの時代において(知性的・理性的な)作家であることの困難を思う。しかしながら、この反知性の時代に対抗するのは、やはり知性を持ってしかないのだと考えざるを得ない(そうでないとするなら「理性」を捨てなくてはならない)。少なくとも、『決壊』で絶望を描いたこの作家はいまだに希望を捨ててはいないのだ。それが伺える「後書き」のパラグラフを紹介してこの感想文の終わりとしたい。

 <私たちは、今日、巨大な世界との対峙を余儀なくされている。なるほど、個々には葦の一本に過ぎまいが、しかし、決して孤立した葦ではない。古今東西に亘って、たくましく繁茂し続けている一群の葦であり、宇宙を包み込むのは、その有機的に結び合った思考である。>

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by ok-computer | 2019-01-13 17:47 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)