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音楽の海岸

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『Yakushigawa Chiharu Solo Exhibition』(京阪百貨店守口店)

 薬師川千晴さんの作品を特徴付ける要素のひとつとして、テンペラ絵具を素材に用いていることが挙げられますが、「右手と左手のドローイング」シリーズは、そのメディウムの魅力が最もシンプルな形でヴィヴィッドに表現されたものだと言えるでしょう。

 また、今回その「右手と左手のドローイング」のみに絞った展示となっているのは、会場となった、京阪百貨店守口店2階にある<ナナイロフルール ナナイロミュージアム>のスペース的な制約もさることながら、その形態から「小さな教会」をイメージした薬師川さんが、人が祈るときに両手を合わせる仕草から着想を得た「右手と左手のドローイング」が相応しいと感じたことに由来しています。

 幸運にも在廊されていた薬師川さんとお話しすることが出来て、作品の制作手順をお伺いしたのですが、まず使いたい色を一つ決めてから、その色に合うもう一色を選び出し、筆は使わず、文字通り右手と左手に絵具をつけて、それらを同時に支持体の上に押し出すようにして塗り付け、混じり合わせてゆきます。一枚の作品を描くのにかける時間は早く、数十秒から数分くらいだそうですが、同じ色を使って、時には20枚以上、今回は3〜8枚程度描いた後に、最も気に入ったものをピックアップする、とのことでした。

 さらに、作品の制作動機も尋ねてみたのですが、「何も作らなければ、手から零れ落ちる砂のように、ものごとは忘れ去られるままなので、その時間の痕跡として作品づくりに臨んでいる」という旨のことを仰っていて、確かにそれは、本来<空間芸術>であった絵画の中に時間軸を取り込もうとする試み、あるいは、作家が作品と向き合った時間というものはそもそも画面に内包されているのではないかという、かねてから薬師川さんが語っていることともリンクして、なるほどと得心が行く思いがしました。

 ところで、仕事をする上で「これをする必然性は何か?」ということは誰もがよく聞かれる(=詰問される)ことだと思うのですが、アートの世界でも例外ではなく、「この色を使う理由は?」「この技法を用いる必然は?」「この作品の歴史的コンテクストは?」などなど、厳しく問われているのではないでしょうか。果てには、その理論武装された彼方に作品が存在してしまっているような印象を受けるものもあったりしますが、それに較べると、もしかしたら薬師川さんの作品は唯美主義的に見えてしまうのかもしれません(勿論、薬師川さんご自身は先に述べたような疑問に逐一答えられるのですが)。

 しかしながら、こんなことを書けば素人丸出しで、一笑に付されるのを覚悟で言えば、それ自体で屹立している「美」が目の前にあるというのに、そこに更なる意味性を求めてしまうなど、それこそ野暮なことではないでしょうか。無論、この「右手と左手のドローイング」だけを以てして、薬師川さんの作品を語り得るには充分ではありませんが、その本質の一旦を伝えていることには変わりありません。曰く言い難くとも、この小さな<聖堂>の中で、薬師川さんが「私の宗教画」だと語る作品を前にして、ひたすら「美」に魅入られているほうが余程いいことではあるまいか、と感じられたのでした。

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by ok-computer | 2019-06-30 23:59 | アート | Trackback | Comments(0)

岡本里栄・葛本康彰「お留守番プロジェクト vol.14 さとやま-ギャラリ」(Gallery OUT of PLACE NARA)

 岡本里栄さんと言えば、独特の筆致とユニークな色彩の選択によって、グループ展の中に一点混じっていたとしても「これは岡本さんの作品に違いない!」と確信させるような際立った個性を確立されています。更に近年の作品では、ユポ紙にアキーラ(水性アルキド樹脂絵具)を使って描くことを創作の中心に据えて、余白を残すことも厭わない、そのタッチはますます自由に大胆になっているように思われます。

 今回は二人展という形式になっていますが、どちらかと言えば、メインは岡本さんで、企画をされた葛本さんはキュレーター、あるいは舞台監督的な立ち位置にある印象を受けました。実際のところ、葛本さんがこの展覧会のためにご用意されたステイトメントにも、自身の作品に関する言及はほとんどなく(発砲スチロールを溶解させることによって成形する、魅力的な作品も展示されているというのに!)、彼が長年関わっている、生駒市高山町での里山芸術企画における、自然と人為の「動的」な交わりという視点から、改めて岡本作品を読み解くという内容になっていて、「なるほど」と得心がいくところがたくさんありました。以下に引用します。

<岡本さんの絵を初めて見たのは10年くらい前でした。遠くから見ると横たわる大きな顔が、近づいて行くと目の前で解体されてゆくように無数の鉛筆のタッチへと変貌しました。勿論作品が変化している訳では無く、鑑賞者が自らの足で作品との距離を変えることが、作品の見え方を全く違ったものへと変化させるのです。(中略)この「距離を取ると見えていたものが、近づくと見えなくなって別な存在として感じられる」という事を、僕たちの日常の人の捉え方に重ねると、「別な存在」とは肌のぬくもりや息遣いのような視覚以外で知覚している情報なのでしょう。自ら動けない絵画でありながら、岡本さんの作品は鑑賞者のその場の動きや日常の知覚と連動し、動的に振舞うのです。>

 岡本さんの近作から、個人的に想起したのは晩年のムンクの作品です。正直なところ、精神的な病を克服した晩年のムンクには、その憑き物が落ちると同時に、作品からも緊張感が失われていったというイメージを持っていたのですが、岡本さんの、大胆でありながらも繊細な、そのタッチと色彩と余白とを眺めていると(こう書くと大仰に感じられるかもしれませんが)逆説的に晩年のムンク作品を見直す契機を与えてくれたようにも思います。

 アキーラとユポという、画材と支持体の変化とともに、最近の岡本さんが描いてきたのは、脱ぎ捨てられた靴下や、ぐちゃぐちゃのシーツ、干されたレインコートなどの、岡本さん曰く「私の身体の抜け殻」でしたが、里山に取材した今回の展覧会では、現場に打ち捨てられた(?)遮光ネットや、焚き火の後、洗濯ロープに干された軍手などをモチーフにしています。里山という「自然」に加えられた「人為」の抜け殻という意味で、それらは創作的にはやはり地続きの関係性にあります。しかしながら、これまで人物や、その人物が纏っていた衣服などを描いてきた岡本さんのモチーフが、葛本さんとの交流や里山芸術との出会いによって、図らずも「社会的に開いた」ものへと変化したことは注目すべきでしょう。

 今秋には里山における野外作品展に出品されることも決定しており、ギャラリーを飛び出した岡本さんの作品がより多くの人の「知覚」に触れることを願っています。

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by ok-computer | 2019-06-23 13:12 | アート | Trackback | Comments(0)

平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

 本書第3部における、フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』を取り上げた箇所のなかで、平野氏は議論の組み立て方として<相手の意見→理解→しかし、否定→自説の展開>という形式が効果的であることを説いている。これをこの本自体に当て嵌めてみると、相手の意見=「速読」、自説=「スロー・リーディング」という図式となる。

 せっかくなので、この形式に沿って『本の読み方』をスロー・リーディングしてみよう。まず著者は序文で「本書の立場は、徹底してアンチ速読である」ことを表明しており、その方針に基づいて本書の論考は進められてゆく。しかしながら、これもまた序文で、平野氏自身も「速読」に憧れていた一人だったことを告白しており、決してアタマごなしに速読批判しているわけではないこと(=一定の「理解」はあること)は読み取ることができるだろう。

 続いて「否定」がやって来る。アンチ『本の読み方』の向きが批判するのがこの箇所で、フォトリーディングの件など、アンチ速読の論旨がいささか強引過ぎるというのが主な意見だが、平野啓一郎ともあろう人が、筆が滑ったというのだろうか? 実際のところは分からないが、平野氏が言うところの「誤読力」を活用してみよう。ヒントはやはりこの本の中にある。「違和感を覚えた箇所こそは目のつけどころだ。(中略)作者が、いささかムリをしてでもねじ込みたかった重要な意味を持っていると考えるべきだろう(古今のテクストを読む 三島由紀夫『金閣寺』の章より)」。「いささかムリをしてでも」著者が伝えたかったのは、どうしても読み落としが出てしまう速読のデメリットであり、ひいては自説、つまりスロー・リーディングの効能である。

 余談だが、(おそらく)速読の効能を信じるであろう人が批判する、本書の速読批判の部分について、速読技術の観点から言えば、ここで一々立ち止まらず、それなら読み飛ばしてもいいと思うのだが、如何なものだろうか?(当然ながら、スロー・リーディング的には読み飛ばしてはならないし、なぜ著者が速読に否定的なのかは自ずと理解されるであろう)

 いずれにしろ、速読技術を論破することはこの本の主目的ではない。「一冊の本を、価値あるものにする」ために、どう読んだらいいのか?ということがテーマであり、帰納的に導き出されたのが、自説=「スロー・リーディング」であり、「リリーディング(読み直し)」である。若い頃はお金が無いので、同じ本やCDを何度も読んだり聴いたりして、おかげでそれらの細部まで今でもはっきりと覚えている、ということが書かれているが、これなどは多くの人が共感できること、あるいは経験則として実感していることであり、速読批判に批判的だった人でもストンと腑に落ちるのではないだろうか。

 ところで、この本書が新書(現在は文庫化もされている)だからといって、平野ファンとしては、単なる読書指南書として読むのはあまりに勿体無いし、当然それだけに収まらない内容が詰まっている。『私とは何か 「個人」から「分人」へ』が『ドーン』や『空白を満たしなさい』などと密接な関係にあるように、『本の読み方』にも平野作品を読み解くヒントが彼方此方に散見されるのだが、ここでは『金閣寺』を取り上げた箇所について記しておきたい。

 <「思想の対決」としての会話>という章のなかで、ドストエフスキーの小説の登場人物がそれぞれに完全に独立した思想を持ち、彼らが対話を通じて対決する「ポリフォニー小説」であることを紹介し、ドストエフスキー(とトーマス・マン)の影響下で書かれた『金閣寺』にも幾分その傾向があることを指摘し、後に出てくる「他作品との比較」の重要性とも結びつけているが、これは平野氏自身の『決壊』にも通じることであり、またあの作品が、ドストエフスキー→トーマス・マン→三島、という系譜に連なる「総合小説」であり、「ポリフォニー小説」であることが、他作品を語ることによって自作を語るようにして、理解できるようになっているのではないか思う(この時点ではまだ『決壊』は書かれていなかったにせよ)。

 また、ここに引用された『金閣寺』の、「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に沸き立った。」という箇所を読んで『空白を満たしなさい』のタイトルを想起しない平野ファンがいるだろうか?あのタイトルは明らかに『金閣寺』のこの箇所を意識してネーミングされているのである。作品をそれぞれ独立して個別に読めることは勿論ながら、平野氏は自作を全的に捉えられることをも意識し、またそれを可能にしている作家であることは他でも書いたが、新書といえども、それはまた例外ではないのだ。

 スロー・リーディングによって、小説の中の文章や議論の組み立てを慎重に見ておけば、自分が文章を書くときの参考になる、と著者は指摘する。その論拠こそがこの『本の読み方』であり、その意味でも、平野啓一郎は本書において、まさに「スロー・リーディングの実践」をしてみせたのである。

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by ok-computer | 2019-06-10 20:48 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(0)