サリー・ルーニー『ノーマル・ピープル』
コネルの母親はシングルマザーで、マリアンの家でお手伝いとして働いている。マリアンは高校では友達のいない変わり者だと思われているが、コネルはスポーツが得意で勉強も出来る学校の人気者。この二人の4年間に渡る恋愛と友情の関係が描かれていく。
社会的な格差と恋愛における主従関係に<捩れ>現象が起きているところにこの小説のユニークさと現代性があって、勉強(二人とも優等生だ)のように努力次第でどうにかなる部分と、出自や恋愛(ルックス)のように、努力だけではどうにもならない部分とによって、人は常に他者から規定され、かつ行動を制限されているのだと思い知らされる。
<ノーマルな人々>という実体のない概念に囚われ、それに似せようとしてみても、合わない服を無理矢理着せられているかのようで、どんどん状況が酷くなっていくマリアンに「どうして逃れようとしないのか?」と、読み手はイライラにも近い感情を抱くかもしれないが、 その答えは彼女が女性だから、ということに尽きるのかもしれないと感じた。基本的に作中に作者が出てくるようなことはなく、現在進行形で淡々と描写されていくので、字面だけ追って読んでいると、「何を言いたいのか分からない」ということなってしまいかねない。そこに何を読み取るのか、読み手の技量が問われる鏡のような小説だと言えるだろう。
村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』
標題作と「秘密の花園」が出色。
「ミラクリーナ」の主人公は小学校3年生の時に始めた魔法少女ごっこを36歳になった今も続けている。という設定はいかにもこの作者らしいと思わせるが、<ストレスフルな日々をキュートな妄想で脚色して何が悪いんだ>とあるように、実際のところ、大人になってからの方が、現実逃避でもしなければやってられないようなことは多く、その意味で一般的な読者にも比較的共感しやすい内容ではないだろうか。
<普通><常識><正義>といった社会的な当たり前をその作品を通して問い直すのが、村田文学の一貫したテーマであるのだが、設定があまりに突飛だと、読み手の人生には関係ない人物として上滑りしてしまいがちであるので、共感/共有できるかどうかは彼女の作品を評価する上で大きなポイントになっていると思う。そして、同じようなテーマを扱っているにも関わらず、なぜこれほどまでに作品によって好き嫌いがはっきりと分かれてしまうのか?という個人的な疑問についても、その点において説明が出来るような気がする。
ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』
インパクトのある表紙デザインだが、<You can't judge a book by its cover.>と言うべきかもしれない。
ソウル郊外の大規模開発を巡っての投機熱を背景としながら、ある機能不全家族の内に起こった悲劇を描いていくのだが、現実と幻想、そしてそのどちらとも判然としないものが渾然一体となって、どのような構造の物語なのか、読み下すのに随分と苦労した。さらに、詩的な表現があるかと思うと、口を極めた罵倒表現も頻発して、なかなか物語の世界に浸らせてくれず、それよりも作者は、読み手を絶えず覚醒させることを意図しているようだ。格差社会における暴力の連鎖は結局のところ一番弱い者へと集中する。悲劇的なクライマックスに至って、それまでに描かれてきたすべてが有機的に、あるいは小説的に繋がってゆくのを、私たちはただ呆然と眺めるしかないのだろうか。<誰であれ、この不幸な物語の最後のページまでついてきて下さったただ一人の人であるあなたに、どうぞこの物語が苦痛すぎないものであるようにと、願います。>というのは、作者のあとがきの言葉である。
平野啓一郎「富士山」(『新潮2023年1月号』)
らしからぬタイトル、そしてマッチングアプリで知り合った男女という設定に油断していると、最後には思いも寄らぬ地点へと連れて行かれることになる。作中の人物がどのような形で事件に巻き込まれたのかを明言せず、読者の思い込みを利用した意外性のあるステーリーテリングや、コロナ禍で話題になったハンドサイン(ハンドシグナル)の取り入れ方も実に巧みである。掌編の中ではとても解決できないような、微妙でいて考えさせられる問題を複数取り上げた多層的な作品でありながら、平野氏の近作同様、あくまでも語り口は平易で明快であり、これが今後の彼の作風の基調となってゆくのだろう。象徴的かつ一面的に語られる富士山を分人主義的に解釈することによって、主人公と作者の心情を託す結末には、もはや巨匠の境地だと唸らされた。