「ゲルハルト・リヒター展」に行ってきました。電車だとなかなか不便な場所に美術館はあるのですが、今回観逃してしまうと、日本でこれほど纏まった数のリヒター作品を一度に観れる機会はいつになるのか見当もつかず、ちょうど全国旅行支援制度が始まったこともあって、思い切って行くことにしました。結果、やって来て本当に良かったと思いましたし、心情的には、もう暫くは他のアーティストの作品に接してリヒターを観た記憶を上書きしたくないな、と思わず感じてしまったくらいでした。
アートのみならず、音楽や文学、映画でもそうですが、本当に圧倒的な作品を目の当たりにすると自分の中から言葉が失われていくような感覚を強く持ちます(むしろ、少しばかり欠点のある作品のほうが何かと語りたくなる)。今回のリヒター展においてもそのことを改めて意識しましたが、と同時に、リヒターの作品自体も言葉の介添えを必要としない成り立ちをしているのではないか?という印象を受けました。
《アブストラクト・ペインティング》2016年 油彩、キャンバス
言うまでもなく、ゲルハルト・リヒターは現代における最も重要な芸術家のひとりであり、20世紀後半以降の抽象表現主義をリードしてきた存在です。スナップ写真などをぼかして模写した<フォト・ペインティング>やスキージ(長いへら)を用いた<アブストラクト・ペインティング>など、手法や技術の斬新さと、作品としての面白さ(美しさ)がそこでは見事に両立されているのです。実際、日本の若手作家の作品を見ていても、「これは・・・リヒターですよね!?」と感じられるような作品は多く、現在のアート界において、意識的にせよ無意識的にせよ、リヒターの影響下から全くの無縁でいられることは困難ではないのか?と思わせる程です。
《不法に占拠された家》1989年 油彩、キャンバス
《トルソ》1997年 油彩、アルコボンド
《モーリッツ》2000/2001/2019年 油彩、キャンバス
《花》1992年 油彩、キャンバス
なぜリヒターは人気があるのか、どうしてリヒターは特別なのか?と、作品を目の前にしながら考えていましたが、私が思い至ったのは、リヒターの作品は「分かりやすい」からではないか?ということでした。ここで言う「分かりやすさ」とは、日本のお笑い番組のような底の浅い幼稚さを視聴者と共有する「分かりやすさ」ではなく、「クオリティがあまりにも高いために、背景を一切知らなくても、作品だけでも充分に楽しむことができてしまう」という意味での「分かりやすさ」であって、アートやヨーロッパの歴史に詳しい方なら深く掘り下げて鑑賞できるでしょうし、ライトな美術ファンであってもポップアート的にアクセスすることが可能です。どちらかというと、ライトなアート好きである私などは、ある事件で亡くなった8人の看護学生を扱った新聞記事の写真をもとに制作された『8人の女性見習看護師』を観て、「リヒターって、無茶苦茶絵の上手いアンディ・ウォーホルじゃないの?」という感想を抱いたりしましたが(ウォーホルの絵が下手だとは思いませんが)、有名な<フォト・ペインティング>や<アブストラクト・ペインティング>以外にも、<カラー・チャート>や<オイル・オン・フォト>、<ストリップ>など様々なシリーズがあって、そのどれもが高品質で興味深く、絵画や写真、表現方法などについても再考させられます。それぞれの身の丈に応じて、鑑賞者が思い思いにかつ全方位的に楽しむことができるところにリヒター作品の底知れぬ魅力が存在しているように思われました。
《アブストラクト・ペインティング》1992年 油彩、アルミニウム
《MV 144》(シリーズ<Museum Visit>より)2011年 ラッカー、写真
《9月》2009年 デジタルプリント、2枚のガラス
《エラ》2007年 油彩、キャンバス
個々の作品についても触れておきましょう。油絵によっては「これはもう立体作品ではないのか?」と思うくらいに重ね塗りされているものもありますが、リヒターは<フォト・ペインティング>にしろ、<アブストラクト・ペインティング>にしろ、存外に塗り込みは浅くて(平面作品とはいえ)平面的な印象で、それは写真表現との差異を曖昧にするために意識的にフラットに仕上げているのではないかとも感じられます(会場には絵画の写真ヴァージョンも多数展示されていて余計にその思いが増します)。一方で、<フォト・ペインティング>のぼかしを表出する刷毛の流れや、<アブストラクト・ペインティング>のスキージでの引き延ばしやキッチンナイフでこそげ落とした足跡を視認できるのは会場で本物を前にしてこそ可能なことでもあります。笑ったのは、リヒターにとって唯一の映像作品である『フィルム:フォルカー・ブラトケ』で、ピントが合っていないのはリヒターらしいにしても、何が映っているのかも判然としないような過激なピンボケ振りで、ほとんどの人がすぐに部屋を後にする中で、私は(これまた)これを逃しては二度と観ることはないと14分32秒を最後まで観切ってしまいました。
《8枚のガラス》2012年 8枚のアンテリオ・ガラス、スチール
《ストリップ》2013〜2016年 デジタルプリント、アルディボンド、アクリル(ディアセック)
《アブストラクト・ペインティング》2017年 油彩、キャンバス
《4900の色彩》2007年 ラッカー、アルディボンド、196枚のパネル
<フォト・ペインティング>はおそらくリヒターの最も人気のあるシリーズで、その精密さ故に制作に時間を要するのか、本展では『モーターボート(第1ヴァージョン)』を除いて小ぶりな作品が多かったのですが、作者の筆力というものをまざまざと見せつけてくれますので、立ち止まってじっくりと見られる方が数多くいました。それに比較して、<カラーチャート>や<ストリップ>、そして<アブストラクト・ペインティング>のいくつかのようなカラフルで大型の作品はやはり「展覧会映え」がします。<カラーチャート>シリーズの『4900の色彩』は、約50cm四方のパネル196枚を組み合わせた作品で、展示方法は11通りあるそうで、豊田市美術館では、東京国立近代美術館と展示方法が異なっていました。色彩を操るリヒターの感性は魔術的で、カラフルな作品はもちろん、『グレイの縞模様』などのグレイを基調とした作品であっても如何なく発揮されていて、グレイやモノクロもまた豊かな色彩であることを教えてくれます。
《グレイの縞模様》 1968年 油彩、キャンバス
《モーターボート(第1ヴァージョン)》 1965年 油彩、キャンバス
《8人の女性見習看護師(写真ヴァージョン)》 1966/1971年 8枚の写真
そして、言及しない訳にはいかないのが『ビルケナウ』。アウシュヴィッツの強制収容所でひそかに撮影された写真を素材とした4点の大作で、この作品をバラバラに散逸させないことがゲルハルト・リヒター財団設立の目的のひとつであったということです。作品の背景が明らかにされていることで、観る者のベクトルに一定の方向付けを余儀なくはされますが、それを抜きにしても、黒を基調とした画面構成にただならぬ緊張感を湛えた傑作であることに違いはありません。『グレイの鏡』を間に挟んで、油彩と写真ヴァージョンが対峙されていて、遠くから一望するだけではどちらがどちらなのか判然とせず、絵画と写真との関係性、アートを見るという行為の在り方についても改めて問いかけています。
《ビルケナウ》 2014年 油彩、キャンバス
《グレイの鏡》2019年 エナメル、4枚のフロートガラス
《ビルケナウ》 2014年 油彩、キャンバス
《2014年12月8日》2014年 油彩、写真
どれも傑作揃いなので切りがありませんが、その他印象に残ったものとして、『8枚のガラス』は、周辺の『4900の色彩』や『ストリップ』、それに会場の鑑賞者を8枚のガラスに反映して、本展の最も「写真映え」するスポットになっていました。また、多数展示されていた<アブストラクト・ペインティング>シリーズの中でも、2017年に制作された、リヒターにしては珍しいピンクを基調とした作品は、その物珍しさもあって、ずっと観入って(魅入って)しまいました。このような作品を眺めていると、ポロックやデ・クーニングなどから繋がる、欧米の大きな絵画史の既に一部と化したリヒターの立ち位置が感じられてくるようです。そして、<ムード>と題されたシリーズは、油彩画の制作から引退したはずのリヒターが、もともとは水彩画であり、それを写真に収めたことを言い訳(?)にして発表した今年(2022年)の作品で、ピカソの晩年のような児童画を思わせる一方で、なお色彩への鋭い嗅覚を感じさせて、本展の締め括りに相応しい作品であるように思われました。
《ムード》 2022年 写真
《アブストラクト・ペインティング》2017年 油彩、キャンバス
《アブストラクト・ペインティング》2017年 油彩、キャンバス
《アブストラクト・ペインティング》2017年 油彩、キャンバス
展覧会を見終わった後には、余りに凄くて圧倒的で、受けた感銘を言語化できず、そもそも言葉に還元すること自体が嘘っぽく安っぽくも感じられましたが、リヒターが<アブストラクト・ペインティング>でスキージを使ってキャンパス上で絵具を延ばしたり、削り取ったりすることで新規なイメージを表出させるように、時間を経ることで自分の中にも少しずつ言葉が生まれきました。比較するのは烏滸がましいですが、リヒターにとってのスキージは、私たち鑑賞者にとっては思考することがそれに当たるのではないかと想像します。アートが「表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」であるならば、鑑賞者は作品に向き合い考えることで、観るという体験が自身の内部に血肉化されて、はじめて精神的・感覚的な変動が得られるのかもしれません。
《1999年11月17日》1999年 油彩、写真
《ヴァルトハウス》2004年 油彩、キャンバス
《アブストラクト・ペインティング》2016年 油彩、キャンバス
リヒターにはガラスや鏡を用いたシリーズがあって、本展においてもいくつか展示されたそれらは、会場の風景や人々を映し出して、そこに映じる自分の姿を見出だしてはギョッとしたりしましたが、アート作品と向き合う時間はまた、鑑賞者が自分自身と向き合う時間でもあることを再認識させてくれます。リヒターの作品が余り言葉を必要とせず、あるいは言葉にすることの無為を感じさせつつも、アート作品が最終的には誰かに観られることによって完結するのならば、観る者が考えることや言語化することにもいくらかの意味はあるはずで、思考することによって自分の中に体験を定着させて、リヒターがスキージを使ってキャンバスに絵具を引き延ばしていくかのように、この夢見るような時間を少しでも引き延ばしたいと思わせられたのでした。