キム・ヨンス『波が海のさだめなら』
私たちはミステリーに限らず、小説は読めば読み進むほど、真相が分かってくるものだと思いがちだが、本書はそのような思い込みは先入観にすぎないことを教えてくれる。
養母を亡くした女性(カミラ)が、養父が別の女性と結婚することになったのをきっかけに、育ったアメリカを離れて、一枚の写真を手掛かりにしながら母親を探すために韓国へとやってくる、というのが大まかなストーリーだが、第1部よりも第2部のほうが、第2部よりも第3部のほうが、登場人物が増えて、物語も複雑になっていくために、読者の多くは、後半になるにつれて増していく疑問点をもて余したままに読み終えてしまうことになるのではないか。しかしながら、この分からなさ、人と人が完全に理解し合うことはないのだという認識こそがキム・ヨンス文学のテーマであり、人と人の間に横たわる深淵を、それでも超えてゆくために文学はあるのだという、作者のあとがきの言葉を作品は反映して、もっと分かりやすい物語を、という読者の願いを超えたところに毅然と存在している。
吉村萬壱『CF』
コロナ禍によって意気消沈してしまう人と意気軒昂となる人に分かれるとすれば、吉村萬壱氏は後者であろう。自伝的なエッセイであり、ユニークな哲学書でもある『哲学の蠅』から7ヶ月余りで早くも書き下ろしの新作が発表された。しかも、単に執筆ペースが早いというだけでなく、筆鋒鋭く濃密な内容の作品が続いているのが嬉しいところ。
本作『CF』は、責任の「無化」作用を行う巨大企業「CF(Central Factory)」に纏わる人間模様と社会状況を三人称多視点によって描いていく。近年の日本社会で起きた様々な事件を下敷きにしたと思しきエピソードが、「CF」という架空の企業を物語の中心に設定することで程よく中和されて、いつもより残酷描写や性的描写も控え目なので読み易く、吉村氏の『ボラード病』を気に入った人であればこの作品もすんなりと受け入れられるだろう。
荒唐無稽な設定によって、現実の社会問題をより鮮やかに照射するのは文学の一つの方法論であり、本作品もそれに倣っているが、過度にシリアスになるのではなく、ある意味で「愉しく」最後まで読めてしまうのは、ユーモアが感じられる吉村氏の飄々とした筆致によるところが大きいのではないだろうか。
とは言え、この作品で描かれる架空の世界よりも、現実の日本社会の方が余程ディストピア感があるというのが一番のアイロニーであるように思われた。
村田沙耶香『信仰』
何だかタイムリーになってしまった表題作を中心に編まれた短篇集。
『コンビニ人間』を読んで感激し、その前後の『殺人出産』『地球星人』を読んで、個人的にはついていけないものを感じて、村田氏の作品は暫く離れていたのだが、久しぶりに手にしたこの本は良かった。
収録された作品の多くは海外からの依頼によるもので、もしかしたらこの人は、完全なる創作的自由を与えられるよりも、用意されたフレームがあったほうが、共感しやすく、少なくとも読者が置いてきぼりにされることがないものを書けるのかもしれない。表題作と、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を想起させる「最後の展覧会」の二篇が際立っているが、<クレイジー沙耶香>というキャラクターを受け入れてしまったことに対する後悔の念が綴られた「気持ちよさという罪」と題されたエッセイの正直さにも心打たれた。
平野啓一郎『死刑について』
平野氏の「書き言葉」と「話し言葉」には明確な差異があって、そのひとつは一人称の違い(「私」と「僕」)で、『死刑について』の一人称は「僕」となっているので、平野ファンであれば、この本が「話し言葉」を(加筆・修正はあるにせよ)そのまま書籍化しているということが、その点によっても推し量ることができるのだが、一方で「あとがき」の人称は(当然ながら)「私」となっているので、作者の中でのその二つの言葉の位置付けの違いに注目して読むのも面白いかもしれない。
いずれにしろ、2019年に開催された、大阪弁護士会主催の「芥川賞作家 平野啓一郎さんが語る死刑廃止」という講演会の記録を元にしているだけあって、(最近はかなりリーダビリティが高くなっているとはいえ)氏の小説よりずっと平易な表現が多用された「難しいことをやさしく語る」内容となっている。そして、その内容については、死刑に関する平野氏の講演やそれを収めた映像を見聞きしたことのある人であれば、ある程度承知しているものであるかもしれないが、このように一定量の記号(文字)の連なりを時間をかけて前から順番に最後まで辿っていくことで、「死刑」について自分なりに考えてみるという、私たちに最も必要とされることが、能動的な読書体験の中でもたらされるという一点を以てしても、書籍化した意味はあるのではないかと感じる。
日本における人権教育の在り方など、特に疑問もなくスルーされてきたような事柄を問い直すことによって、死刑をめぐる新たな視点と論点を明らかにしていく本書において私が一番印象に残ったのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対する「憲法で禁じられているから」との答えで、これまで誰も指摘してこなかったことが不思議なくらいに思えるその自明さに、これこそ氏の慧眼だと深く感じ入った。